旗ヶ岡駅と東洗足駅の歴史を探ってみる 総括編1
旗ヶ岡駅と東洗足駅の歴史を探ってみる 総括編2
旗ヶ岡駅と東洗足駅の歴史を探ってみる 総括編3
旗ヶ岡駅と東洗足駅の歴史を探ってみる 総括編4
旗ヶ岡駅と東洗足駅の歴史を探ってみる 総括編5
旗ヶ岡駅と東洗足駅の歴史を探ってみる 総括編6
旗ヶ岡駅と東洗足駅の歴史を探ってみる 総括編7
旗ヶ岡駅と東洗足駅の歴史を探ってみる 総括編8
旗ヶ岡駅と東洗足駅の歴史を探ってみる 総括編9
一方、東洗足駅はこちらも池上電気鉄道同様に紆余曲折があった。ここでは簡単にふれるにとどめるが、田園都市株式会社の鉄道部門と言うべき荏原電気鉄道株式会社による軽便鉄道法による最初の特許取得では、大井町駅を起点とする点は同じだが、洗足池の南側を通るなど田園都市株式会社の買収地とは離れていたばかりか、新宿方面まで延伸計画を持つなど、あまり適切な計画路線ではなかった。このためか、地方鉄道法による免許の申請時に従来計画線をすべて取り下げ、まったく新たな免許線として、大井町から千束、大岡山を経て旭野に通ずる新規計画線を申請し、免許を受けることに成功する。この免許申請時点で、荏原電気鉄道株式会社は田園都市株式会社に免許を無償譲渡し、田園都市株式会社が鉄道敷設計画まで併せ持つような流れが計画され、それが順調に推移したのだった。
(総括編9よりの続き)
しかし、洗足地区の用地買収が地価高騰等の理由によって計画通りに確保できないとなったこと。加えて池上電気鉄道の敷設計画がまったく進捗状況が思わしくないことから、田園都市株式会社は池上電気鉄道に代わる第二期線を自社で計画、免許申請を行う。このあたりの状況を作図して補完説明してみよう。
本図は、池上電気鉄道(紫色)と田園都市株式会社(緑色)、そして武蔵電気鉄道(黄緑色)の計画線と省線のみを入れてあり、既開通済の京浜電気鉄道や玉川電気鉄道などの路線は省略している。時期は、大正10年(1921年)初期。田園都市株式会社の第二期線免許直前の状況である。池上電気鉄道は、蒲田支線の免許を得、本線計画も荏原郡池上村中央を縦断するものから、ほぼ今日の東急池上線(蒲田~雪が谷大塚間)となっている。田園都市株式会社も大井町~旭野間の計画線は田園都市計画地を貫くようになっており、武蔵電気鉄道の計画線だけが計画店晒し状態となっている。ここに田園都市株式会社第二期線が入ることで、このようになる。
第二期線を桃色の太い点線で示した。ほぼ東急目黒線(目黒~大岡山間)と同等で、ほぼ完全に池上電気鉄道計画線と平行したことがわかる。まだ、武蔵電気鉄道から蒲田支線の免許譲渡前なので、これだけ見れば目黒駅を同起点とするだけに見えるが、おそらくこの頃までには蒲田支線を確保する方向で水面下では話は進んでいただろう。
この申請は、池上電気鉄道計画線と部分的にほぼ平行する競願路線であったことから、免許されるか微妙な客観情勢だったが、数か月で免許される(おそらく、
完全平行するのではないと主張したのだろう)。そして、小林一三の知遇を得て、鉄道会社を別法人として切り離す方針とし、その名も目黒蒲田電鉄とすること
で目黒と蒲田を接続する鉄道を敷設・運営する会社としてこれを既定事実化したのである。つまり、目黒蒲田電鉄の設立は、第二期線の目黒~千束(洗足)間、
第一期線の部分となる千束(洗足)~旭野(多摩川)間、さらには武蔵電気鉄道より免許譲渡の多摩川~蒲田間というまったく別個の鉄道敷設計画を一体とする
宣言であり、当時、池上電気鉄道が計画していた目黒~池上~蒲田間と完全競合する路線となった。第二期線の申請時には表向きにしてこなかった路線計画を、
免許後に一気に目黒蒲田電鉄と銘打つ。実に狡猾な戦略であると感心してしまう。
このあたりの「理屈」をもう少し、私の見解を交えて説明しよう。「東急50年史」をはじめとする正史では、第二期線(目黒~千束)の申請や先行開業は「鉄道省の指導」という正体不明の理由だけが書かれている。山手線に接続する方がいい、という理由は何となくはわかるが、それだけの理由で池上電気鉄道と部分的に完全平行する第二期線を計画し、第一期線よりも先行する理由としては弱い。そこで、私の考えるシナリオはこうである。当初は、池上電気鉄道を利活用する方向でいたが、鉄道の利を説いた関係者(おそらく阪急創業者の小林一三氏)の参画によって、我田引水の利益をむざむざ他社(池上電気鉄道)に渡すのではなく、自社で建設することによって相乗効果を得るという方向に転換した、と。しかし、目黒駅~池上~大森駅の路線を先願し免許を取得する池上電気鉄道の存在を無視できず、これに対抗するため、まずは既取得済みの免許(大井町~千束~多摩川)の支線として第二期線(千束~目黒駅)の免許を取得。そして、既成事実化を進めるために、新たな鉄道会社「目黒蒲田電鉄」を設立。会社名どおり、目黒駅~蒲田駅間の鉄道建設を一気呵成に開始して、競合する池上電気鉄道の計画に先んじてしまおうという狙いではないか、と。
本来の第一期線を完成させるのではなく、第二期線を先行開業させた理由は、洗足田園都市への足の確保はもちろん、池上電気鉄道計画線を牽制するためというのが私の見解である。目黒駅~丸子間に次いで、丸子~蒲田駅間をわずか一年程度で開業させてしまったことで、事実、池上電気鉄道は計画線の見直しを迫られた。既に、池上~蒲田駅間は開業済みだったので、もう一方の始点(終点)である目黒駅への接続は見直され、五反田駅へ変更を余儀なくされる。
このあたりの経緯が、池上電気鉄道と目黒蒲田電鉄の因縁のはじまりではないか、と考えるのである。
私見解を述べるのはここまでとし、話を元に戻そう。
これらの事情で、第一期線のうち千束(洗足)~大井町間は目黒~蒲田間が完成するまでの間、店晒しされる。目黒蒲田電鉄としては池上電気鉄道よりも先行して目黒~蒲田間を開業させなければ意味がないとわかっていたので、先行する池上電気鉄道に負けないよう、鉄道資本はすべて目黒~蒲田間に投資されたのは言うまでもない。目黒~蒲田間の建設工事で資金のほとんどをつぎ込んだ目黒蒲田電鉄は、第一期線の延期申請を繰り返し鉄道省に行っている。理由も素直に「目黒~蒲田間の建設工事で資金のほとんどをつぎ込んだ」とし、ようやく二子玉川線の免許に見通しの立った大正末期に工事着工する。
しかし、この間あった関東大震災によって、大井線の計画ルート(特に荏原郡平塚村大字小山のうち)には人家が密集し、洗足駅からの分岐も困難になる。そこで、計画線を大きく南側にふり、分岐駅を田園都市株式会社計画時の大岡山駅に戻した。ちょうど千束耕地整理組合(馬込村千束)によって、耕地整理事業が進捗する中、大岡山駅から東洗足駅方面の鉄道用地を確保することに成功。平塚耕地整理組合との調整も進み、残された問題は大井町駅への接続方法だった。しかし、鉄道省出身の五島慶太氏ならではの等価交換方式で、大井工場用地と品鶴線用地と交換をもって、難なく大井町駅西側へのルートを確保。こうして、今日の東急大井町線のルートが確定し、東洗足駅の開業に至るのである。
なお、大井線の駅名は次のとおりである(目黒蒲田電鉄にとっての既設駅である大岡山駅を除く)。
- 東洗足(ひがしせんぞく。洗足田園都市の東に位置する)
- 荏原町(えばらまち。荏原郡荏原町)
- 中延(なかのぶ。荏原郡荏原町大字中延)
- 蛇窪(へびくぼ。荏原郡荏原町大字下蛇窪)
- 戸越(とごし。荏原郡荏原町大字戸越)
- 大井町(おおいまち。省線の駅名)
こちらも池上電気鉄道と同じく、概ね町村名、大字名を採用しているが、例外は東洗足駅である。開業当時、洗足田園都市の名は金看板だったので、当然これを採用したと見るべきだろう。駅の位置は、荏原郡荏原町大字中延字清水頭なので、ルール的には清水頭駅でもよかったかもしれないが、やはり洗足ブランドには勝てなかったと言うべきか。既にこのあたりにも「洗足」を冠したものが洗足幼稚園、洗足教会等が進出していたことからも、東洗足という駅名は当時では妥当だったと言うことだろう。
旗ヶ岡駅も東洗足駅も、当初は中原街道に接続することを第一としていたが、開業後しばらくして両線の乗り換えが頻繁になってくると、両駅への最短経路が重視され、旗ヶ岡駅は駅西側、東洗足駅は駅東側へ抜けるショートカットが作られ、最短経路沿いに商店街が発達するという流れが生み出される。しかし、この流れも太平洋戦争を挟んで、昭和26年(1951年)に旗の台駅として統合されるに至り、人の流れは再び変わる。両線の接続点に駅ができたため、旗ヶ岡駅並びに東洗足駅近くの商店街は衰退し、代わって旗の台駅を中心とした東西、南北の通りが発展するようになる。そして、旗ヶ岡駅と東洗足駅の歴史は終わり、旗の台駅に引き継がれる。
最後の方は駆け足になったが、既に別記事で取り上げているのでご容赦願いたい。長きにわたっておおくりしてきた旗ヶ岡駅、そして東洗足駅の歴史を探ってみるシリーズは、今回をもって終了。次回以降の地域歴史研究は、別の題材で展開する予定である。といったところで、今回はここまで。
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