今回は、普段調べ物をしている時、さらっと流してしまうようなネタを一本の記事として、まとめて取り上げようという趣旨です。疑義そのものはかれこれ20年程前からのものですが、改めて蒲蒲線(新空港線)ネタで調べている時、やはりこれおかしいと気付いたからです。元情報は国土交通省が提供する国土数値情報のうち、行政区域データに含まれる東京(大正9年)とある情報で、これを数値地図情報として表示できるソフトウェアを利用して表示させると、東京府荏原郡池上村(池上町)の行政区域が誤っているというものです。
上図は境界線のみ行政区域データ(大正9年)に、OpenStreetMapを被せ、村名を追記したものです。都道府県単位ベースの区市町村行政区域ベクトルデータであることから、細かい部分では省略されたり端折られてしまうのは致し方ないとしても、明らかに違う箇所があるのは問題だというわけです。
具体的にどこが問題かというと、池上村と調布村の境界線及び池上村と蒲田村の境界線で、どちらも池上村が関係しています。では、ここで大正6年のいわゆる逓信省地図で池上村を確認します。
池上村は範囲がそれなりに広いので、一部抜粋という形で掲載します。最初は、池上村と調布村の境界を示す部分を示すと、左上に「調布村」と表記がある右側に「字浅草」とある辺りから、「大字鵜ノ木」と見える右側の「字高谷」、「字南薹」(字南台)とある辺りまでの境界線が、比較するとわかるように数値地図データでは池上村部分が調布村部分となってしまっているのです。
実はこの食い違いは、数値地図データのみならず、明治期からの日本帝國陸地測量部が作成した地図からそうなっているのです。
明治42年地図における池上村と調布村の境界付近(©国土地理院)
明治期には、このあたりの1万分の1地図は存在しないため、明治42(1909)年の2万分の1地図で当該部分を示しました。赤色の線が地図に明記された境界線で、数値地図データにもこの境界線が採用されています。一方、逓信省地図における境界線で異なる部分を緑色の線で示しました。明らかに池上村のエリアに調布村が食い込んだ境界線となってしまっています。このあたりは逓信省地図から明らかなように小字ベースで見た境界線でもなく、日本帝國陸地測量部の地図が誤って境界線としたものを、数値地図データでも継承してしまったのではないかと推定できます。ちなみに、明治22(1889)年に池上村が成立して以降、調布村との境界変更は耕地整理以前には成されていません。以上のことから、数値地図データにおける池上村と調布村の境界線誤りは、明治時代の誤った地図情報をそのまま無批判に継承して発生したというわけです。
続いて、池上村と蒲田村の境界線誤りは、上記のような過去の地図情報の継承ではなく、なぜそうなったのか疑義があるものです。
数値地図データでは、池上本門寺の東側(地図では右側。現在の東京都大田区中央五丁目付近)まで蒲田村のエリアが広がっていますが、当然のことながら逓信省地図ではそうなっていません(もっともわかりやすい所で指摘すれば、東海道線の線路を逓信省地図では池上村が跨いでいるが、数値地図データでは池上村は跨ぐどころか引っかかってもいない)。しかもその後の歴史を見れば、池上村と蒲田村の境界はそのまま東京市大森区と東京市蒲田区の境界にほぼ一致しますので、明らかに蒲田村のエリアがここまで進出しているのは完全なる誤りです(上の逓信省地図の右3分の2が数値地図データでは蒲田村となってしまっている)。
どうしてこうなってしまったのかは不明です。当然のことながら、先ほどの調布村との境界線と同じく、池上村発足時から蒲田村との大きな境界変更はありません。数値地図データの誤りは、池上村のうち、大字市ノ倉(地図上の名。市野倉とも表記)、大字堤方、大字桐ヶ谷辺りが蒲田村とされてしまっていることです。このエリアを外せば(池上村に含めれば)、ほぼ正しい境界線となります。
デジタル化が進むのは良いのですが、それはすべて情報が正しいということに尽きます。誤った情報の再生産は、紙の時代の比ではありません。そんなことを思いつつ、今回はここまで。
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