前回は以下の図を示しつつ、町丁目の区画について疑義を呈してみた。
残念ながら昨日の今日なので、どのようなルールに従い、このような区画となったのかは検証できていないが、いずれは調査し解明したいと考えている。と、それはさておき、この時代まで下ってくると、池上電気鉄道は既に目黒蒲田電鉄に吸収合併され、名実共に一体的な運営がなされていたため、この交差部分に乗換駅を設置するという構想は戦前よりあったようである。
だが、単純に交差部分に駅を新設することは困難だった。理由は、交差部分には多くの住宅が密集しており、特に今日の池上線ホームあたりはほとんど隙間もないほどに建物が建て込んでいたのである。しかし、太平洋戦争がこの困難を克服した。建物(家屋)強制疎開である。鉄道や重要な工場等が空襲によって延焼しないように、という理由で私有財産を公共の名の下に破壊し、空地を設けるという施策であった。これにより、今日の旗の台駅部分の多くは強制疎開の対象となり、空襲の被害を受ける前に空地となった。これが戦後になって、旗の台駅を作るのに大いに役立ったのは言うまでもない。
乗換駅となった旗の台駅は、やはりこれも用地取得の関係から、けっして乗り換えしやすい駅ではなかった。無論、東洗足駅と旗ヶ岡駅の間を歩くのに比べれば乗り換えは格段によくなったが、そういった事情を体験していない人(私もその一人)にとっては、東急池上線下り(蒲田方面)ホームから東急大井町線下りホーム(二子玉川方面)への乗り換えは、どこをどうすればこんな不便な構造にするのか理解に苦しんだものである。これは今日改良工事の結果、完全に解消されているが、元を糺せば耕地整理組合によって敷かれた道路が、池上線と大井町線の交差部分東側で線路を避けるように曲げられたことで、用地を確保が物理的に不可能だったからにほかならない。ちなみに今回の大井町線4線2ホーム化を含む駅改良工事は、問題となっていた道路を東側に移動させるという荒技を駆使して、東急池上線下り(蒲田方面)ホームから東急大井町線下りホーム(二子玉川方面)への乗り換えを簡単にした。
昭和26年(1951年)3月1日、東洗足駅が旗の台駅に改称されて14年半後の昭和40年(1965年)9月1日、旗の台駅周辺の大きな範囲が住居表示制度の適用を受け、旗の台一~六丁目が成立。明治時代は一つの小字名に過ぎず、また旗岡八幡南側の台地部分を指した俗称名だったものが、小学校名(旗台[読みは「はたのだい」]尋常小学校は昭和9年6月28日開校。小字名が廃止後に命名)、バス停留所名等に採用された後、駅名となって知名度が大きく上がり、ついには町名にまで昇格したという流れが確認できる。今年は旗の台という町名になってから45年目にあたるので、もう「旗の台」という名は完全に地域に定着したといえるだろう。
とはいえ、旗の台となる前には様々な紆余曲折があったと知ることで、より地域への愛着が持てるのではないだろうか、と述べておいて旗の台駅まで続く通史的解説を終える。総括編4は、駅それぞれの歴史についてをまとめていく予定である。
東洗足駅から、池上電気鉄道に乗り換えるときですが。我が家の周辺では、行き先が五反田方面であっても、長原駅を利用した人の方が多いのではと思います。
理由としては
・長原駅へ向かう方が坂が緩い
・長原駅は、その商店街に「マーケット」が、三葉マーケット、松屋マーケットがあり、1カ所でいろいろなものが買えて便利であり、かつ、安かった。
・昭和20年代、環七はまだ狭い通りで、横断歩道でないところでも渡れた。
(昭和30年代以降の中原街道でさえ、向こう側に渡るのは信号まで行かずにゆうゆう渡れました。昭和20年代の環七は道幅も狭く、向こうまでの距離感を感じなかったのではないかと思います)
我が母親は、買い物と言えば長原商店街でした。
投稿情報: りっこ | 2010/01/17 21:17
りっこ様
先日花光園の上に住んでいる友人を訪ねたのですが、長原で下車しエレベーターで地上に上がってN響練習場跡を通って吉田さんの所を右折して訪ねたのですが、ご指摘とおり標高差を最小限に抑えたなと笑われました。年には勝てません。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/01/18 09:01
りっこ様、木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
う~む、やはり長原乗り換えルートもありですか。
途中駅下車を抜きにして考えると、目黒蒲田電鉄も池上電気鉄道も一方の終点は蒲田なので、大井町線から蒲田方面に行くのであれば、運賃の関係から大岡山での乗り換えがいいのかな~とも思いましたが、途中駅では終点が同じ蒲田でも関係ないですからね。
長原の商店街と言えば、今では環七通りでたたっ切られてしまってますが、拡幅前は連続的になっていただろうなぁと。武蔵小山や戸越銀座ほど長くはないまでも、この近辺では荏原町~旗の台あたりといい勝負だったのかな、と。
投稿情報: XWIN II | 2010/01/18 19:36
木造院電車両マニア様
いいではありませんか!
それは、合理的な考えですよ。母も必ず長原駅のエレベーターを利用しています。
「花光園の上に住んでいる」というのは、すぐとの上の場所でしょうか。そのあたりは清水台小学校学区域なので、私の同級生が現在も(小学校時代からずっと)住んでおります。
ところで
XWIN ll様
木造院電車両マニア様
「洗足会」なるものをご存じですか?
会費1000円なのですが、洗足会に入会可能居住エリアがあり、目黒区洗足2丁目、品川区小山7丁目、旗の台6丁目、大田区北千束1丁目・2丁目のみなのだそうです。
昭和6年に建てられた、洗足駅至近距離の「洗足会館」の会員になるための「資格」だったのだそうです。
私も旗の台に住んでいた当時は、洗足会への入会資格があったのだなと今さらながら思いました。
でも、時既に遅し! (*>ω<)o
洗足会で使われていた「洗足会館」は、2008年で老朽化のゆえ、使用中止に。
そして、実は私が個人的にもっと驚いたのは、
2009年3月をもって、洗足学園第一高等学校が「廃校」になっていたことです。
最寄の駅が洗足駅。
洗足学園大学附属第一高等学校時代に、私の親戚がここで学んでいます。
まさか、廃校になっていたとは…………
話は戻りますが、洗足に関しては、とあるブログにこんなことが書かれておりました。
「洗足は、田園調布より前に、同じ組織らより計画的町づくりが行われたが、この計画は失敗に終わった」「本当は、洗足駅は現在の位置ではなく、今よりも南の三越(バラエティ・閉店)のあたりに予定した」
どちらも、「らしい」という話ですが。でも確かにこのブログに書いてあるとおり、あの辺は五叉路。駅前を放射線にという、計画の残滓?
投稿情報: りっこ | 2010/01/18 19:58
すみませーん
三越バラエティというお店は、私の「夢の産物」かも(;^_^)
「三越」でいいみたいですね。訂正しておきます。
それから、私の小学校の同級生で、我が家の近所在住だった人に、このブログを紹介したのですが、そのときにこんなメールでの返事をもらいました。
「また、両親に聞いてみます。中原街道が馬糞だらけの草ぼうぼうの細い道だったとはよく聞かされてました。以前話しましたが、父は、乗り換えは当然長原駅で、旗が岡駅なんて使わないの一点ばりですよ。それから、昔祖母が、『東洗足』という言い方を
かなり多用していて、子供心に、何でバス停の名前でしかないのに‥と感じてたのですが、このブログをよんだら、東洗足の街というものが確かに存在した時代があったのだという実感が強く湧いてきました!」
三間通り近くの友人です。「こ、このブログ、スゴイ!!!」
とのことです o(^-^)o
投稿情報: りっこ | 2010/01/18 20:17
りっこ様
洗足女学校が廃校となったよし、驚きました。校長先生の名前は忘れましたがしっかりした教育方針を持ったかたであると聞いております。私の姉もここを卒業しました。
花光園の上には昔銀座松屋の重役をしておられご子息が立教大学の教授をしておらえた細入氏が住んでおられた所でその弟さんは小学校のクラスメートでしたが大部前に他界されました。私が訪ねた友人はその前の角で、小学校のクラスメートです。ご実家の上の吉田様のお嬢様を含み、洗足幼稚園の斜め前に住んでおられた渡辺晋氏(渡辺プロダクション社長)とその友人も洗足幼稚園の同窓生で、クラス会も此れ等の方々が中心になって毎年集まっています。私の妹と弟はこの幼稚園の卒業生ですが、私は虚弱体質のため幼稚園に行けませんでした。今日まで生き残ったのも阿弥陀如来のご慈悲によるものと感謝しております。去年は渡辺氏の二十三回忌でしたので私は僧籍はありませんが追悼の辞をクラス会で述べました。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/01/19 10:17
りっこ様、コメントありがとうございます。
洗足田園都市が成功だったのか、失敗だったのか、は「何をもって」という条件で決まってくると思います。確実に言えることは、田園調布のようなコミュニティは維持できなかった、という事実です。社団法人田園調布会は、今でも立派に町会機能を維持しておりますが、社団法人洗足会は既にその体を戦後直後(見方によっては戦時中)に失い、町会とは完全に別組織となってしまいました。
また、洗足五叉路(小山七丁目交差点)に駅の計画があったことについては、近日中に私の論考を述べてみたいと考えています。無論、池上電気鉄道がらみで。
で、拙い当Blogをお褒めいただき恐縮です。今後ともお友達の方によろしくお伝えくださいませ。
投稿情報: XWIN II | 2010/01/19 20:29
そうなんですか。そんな有名な方、このあたりに住んでおられたのですね。
私が知っていたのは、作曲家の服部氏ぐらいかな。あと、現在芸能人が2~3、洗足地区には住んでいるみたいなんですが、すみません。私名前ど忘れしてしまいました。友人に家を教えられたんですけど……竹中直人氏の家は、たしかそうだったと思います。
木造院様の周囲の方々は、洗足幼稚園卒の方がいらっしゃるのですね。私、この幼稚園が、いつまであったのか知りたいんですけど、ご存じないですか?香蘭になってからも、端の部分は「洗足幼稚園」と表示されていまして……だから、香蘭ができたから、洗足幼稚園がなくなった、というわけじゃあないみたいですね。
洗足女学校は、いわゆる「発展的解消」なんですね。今、この学校は幼稚園から大学院まであるんですねぇ。すごいです。一大学園になりました。
細入氏というと、花光園裏の、大きなおうちでしたよね。
花光園の裏も、平和生命の裏も、香王堂の裏も、細入さんのおうちでした。時代が近ければ、校区的には清水台ですね。細入氏のおうちのすぐご近所が、私の同級生宅です。
投稿情報: りっこ | 2010/01/19 20:41
りっこ様
洗足幼稚園
何時閉園になったか聞いてみます。
有名人
一口に洗足地区と言っても東側の広大な地域は鏑木氏の所有地で以前は洗足田園都市とは一線を劃していましたが有名人や特に内務省村と言われる高級官僚が住んでいました.渡辺晋君の父君も日銀の理事でした。此れ等が理由で、内務省が文部省に圧力を掛けて優秀な教員を第二延山小学校に送り込んだ結果、城南地区で有数の進学校となったのです。あまり実力が無かった私にとっってはまさに漁夫の利でした。
洗足田園都市
私の感覚では中心は自治会長である郵便局長宅のある五叉路です。他方、目黒蒲田電鉄が開通したときの式典には碑衾村の地主が列席しております。駅の所在地が碑衾村にあるので当然ですがこれが自治会の性格を曖昧にしているのも事実です。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/01/19 22:32
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
洗足田園都市の悲劇は、碑衾村大字碑文谷(現目黒区)、平塚村大字小山・大字中延(現品川区)、馬込村千束(現大田区)の3つに行政区画がまたがっていた。それが東京市合併時にもそれぞれ目黒区、荏原区、大森区に分裂したままとなってしまったことにつきるでしょう。東京市合併時に、碑衾町の田園都市部分まとめて荏原区への一括併合に関する陳情も出されましたが、多くの、それこそ無数の境界変更に関する陳情に対して、東京府及び東京市の出した回答は「すべての境界の変更を認めず」というものでした。これにより、耕地整理の結果、新たに合理的に引き直された境界でさえ、以前の耕地整理前のものに戻されたということが以前に公文書を調べた結果確認できています。
このあたりの町村分合の歴史も過去はもちろん、現在にも大きな影響を引きずっていますので、機会があれば書いてみたいな、と考えています。で、洗足田園都市の中心は洗足駅、ではありますが仰せの通り、よく見れば洗足五叉路だとわかります。貴重なお話しをありがとうございました。
投稿情報: XWIN II | 2010/01/20 07:31
XWIN II様
境界線変更は簡単ではありません。中央区と千代田区の間の高速道路の下の商店街は感覚的には西銀座ですが莫大な税収がからむので双方とも一歩も引かず未だに決着しておりません。自由が丘の南口の九品仏川の暗渠に沿った桜並木の商店街は川を挟んで世田谷区奥沢と目黒区自由が丘に分かれており行政サービスの効率化の支障となっています。川を区境とすることはしばしばありますが暗渠にして商店街にすることは全く予想外のできごとです。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/01/20 11:30
りっこ様
同じ先生により受験勉強をしていましたので、細入君の家にはよく出入りしていました。兄君の立教大学の教授の方は立派な人格者でしたが、弟子の助教授の問題で苦境に立たれたようです。人間には何時災難が降り掛かるかわかりません。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/01/20 11:39
区画整理
小生は昭和34年に結婚して大森山王に住んでいましたが、車が一台ようやく通れる田舎道そのままで、タクシーに乗車拒否されて往生しました。特に雪の日は坂が多いのでまず車の運転は無理です。交番で救急車のときはどうするのかと訪ねましたら警官がいちいち先導しなければ到達できないとのことです。子供の頃は人力車をよく見かけましたが政府の高位高官もこれで我慢していたのでしょうか。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/01/20 16:21
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
大森山王はあまりにも早く住宅(別荘)地化したことで、自動車などお構いなしの細曲道ばかりですね。八景園跡を分譲した比較的後期のものであれば、まだましなんですが。
大森と言えば、品川~川崎間で最も古い歴史を持つ駅ですが、大井町、蒲田と比べて今ではぱっとしない町になってしまったような…。かつては京浜電鉄が乗入れていましたが、今は何もなし。計画レベルであれば、池上電気鉄道、東京市電などなど。それも皆、山王台地が迫っていたことと住宅が早くから展開していたこと…によるのでしょうか。反面、バス路線は多いですが。
投稿情報: XWIN II | 2010/01/22 06:36
大森駅/京浜電鉄
鉄道技師であった祖父に連れられて6才ぐらいととき大森駅から大森海岸迄旧式な電車に乗り、そこで高架になっっている鈴が森駅から下りてくる電車に乗り換え、京浜蒲田を経由して穴森八幡にお参りに行き、脱脂綿でできた狸のお土産を買ってもらったことを思い出しました。当時既に第一京浜が出来上がっていたのだと思います。
池上電鉄は池上街道の線をギブアップしましたが、案内図には予定線として載っています。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/01/22 10:33
洗足駅が最寄りの友人に、あそこにあったのは、「三越」何だったっけ?と尋ねたら、「三越バラエティでしょ。エレガンスとも言ったと思うけど」と言われました。
とりあえず、私がボケてたわけじゃなさそうで、ほっとしました
f(^ー^;
投稿情報: りっこ | 2010/01/22 21:30
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
池上電気鉄道の歴史そのものから探る知識の旅を続けて、約一年ほどになりますが、やはり資料(史料)の少なさに参っています。その資料もほとんどが「東京横浜電鉄沿革史」と「東急電鉄50年史」からの引用ばかりで、はっきりいってまったく役に立ちません(失笑)。
中でも、「池上電鉄は池上街道の線をギブアップしましたが、」とご指摘の部分、これが実ははっきりした経緯が見えないんですね。流れとしては「池上電鉄申請」→「総理大臣認可」→(途中所管変わって)→「鉄道省に度重なる延期」→「延期認可」→「蒲田支線申請・認可により、目黒~蒲田間を主線とし大森~池上を却下申請」→「鉄道省却下不承認」……で、この後も何度か延期認可を繰り返した挙げ句に、進捗状況がほとんど進まないので結局却下、と。
自主的に池上電気鉄道側が大森~池上間を放棄(免許返上)したいのに、鉄道省がそれに待ったをかける構図、が果たして本当にそうだったのか。あるいは池上電気鉄道が高柳体制になってこれが出てきたのには別の理由があるのか。などなど。
京急大森支線(元は本線)のお話し。ありがとうございます。やはり、こういったお話しはご体験されていないとできないし、空気感としてわからないですよね。自分もそれなりの年齢になってきて、今はなき物を語り合うとき、若人の見てきたような話しぶりに閉口することが出てきました(苦笑)。
投稿情報: XWIN II | 2010/01/24 10:33