旗ヶ岡駅と東洗足駅の歴史を探ってみる 総括編1
旗ヶ岡駅と東洗足駅の歴史を探ってみる 総括編2
旗ヶ岡駅と東洗足駅の歴史を探ってみる 総括編3
旗ヶ岡駅と東洗足駅の歴史を探ってみる 総括編4
さて、本シリーズは久々…というか二週間以上もあけてしまった。この間、まったく書き進めてこなかったわけではもちろんないが、いくつかの理由でとどめて置いた。一つは図版の作成、もう一つは国立公文書館での成果を反映させるためである。どちらもまだ完成はしていないが、そろそろ続きを書かないと忘れてしまいそうなので、今回は途中までだと宣言して総括編5をおおくりする。
旗ヶ岡駅が、というよりも池上電気鉄道が今日の東急池上線ルートとなるまでには、文字どおり紆余曲折あって、旗ヶ岡駅近辺を通る当初ルートは、現在よりもはるか北側を通るものであった。だいたいのイメージとしては、洗足池の東側よりほぼ東北東に進み、立会川まで進むと立会川沿いに北上し、現在の東急目黒線あたりまで至るというルートで、駅の予定位置は現在の昭和大学付近(病院ではなく、大学の方)であった。
これが五反田へと接続ルートが変更になって、中原街道を交差しないルートとなり、現在の洗足池駅あたりからはほぼ現在の東急池上線のルートと同じようになる(やや北寄り)。その後、五反田駅への接続方法も変わって、やや南寄りに予定ルートが移動して今日のルートになった。つまり、現在の旗の台駅付近においては大きくルートが二度変わったことになる(このあたりのルート変更の経緯については、近いうちにまとめる予定である)。
駅の設置は、当初より荏原郡平塚村(→平塚町→荏原町→東京市荏原区)大字中延内には計画され、それが路線ルートの変更に伴って、徐々に南下することとなり、結果として旗ヶ岡駅の場所となる。計画時の駅名は一貫して「中延」駅であって、大字中延内に計画されたことから順当だった。しかし、途中から計画駅名として「旗ヶ岡」が採用される。これは路線の変更に伴い、大字中延内に駅が2か所できることになり、今日の荏原中延駅に「中延」という駅名を譲り、代わって「旗ヶ岡」駅を仮称とした。結果として、目黒蒲田電鉄大井線に先行開業を許し、中延駅を先に命名されてしまったため、「中延」駅は荏原中延駅と命名された。こうして、大字中延内にできた池上電気鉄道の駅は「荏原中延」駅と「旗ヶ岡」駅となったのである。
以上の流れをまとめると、
- 大森~目黒間が計画され、東京府荏原郡平塚村大字中延の西方の地に計画線が通り、中延(仮称)駅が設置計画される。
- 大森~五反田間に計画変更される過程で、大字中延を通過する計画線が南にずれ、直線化される。結果、中延(仮称)駅も南方向へずれる。
- 洗足池から五反田方向の計画線がさらにやや南側にずれ、ほぼ今日の路線どおりとなる。結果、大字中延内の予定駅が1駅から2駅となる。
- 目黒蒲田電鉄大井線に開業が先行される。中延駅を正式駅名として採用。
- 雪ヶ谷~桐ヶ谷間、部分開業。大字中延内の2駅が荏原中延駅と旗ヶ岡駅と命名される。
となる。
さて、この計画路線の変更について、一つ考慮に入れなければならないのは田園都市株式会社との関係である。田園都市株式会社(含、発起人時代)は、荏原郡碑衾村、同郡平塚村、同郡馬込村、同郡玉川村を当初、理想的住宅分譲地として用地買収を行っていた際、自ら荏原電気鉄道という会社を立ち上げ、ここに鉄道敷設計画を担わせていたが、これとは別に池上電気鉄道との提携を模索していた時期がある。これは結局破談となったわけだが、当初の計画路線は洗足田園都市をかすめるように(正確に言えば洗足分譲地予定地域を回り込むように)なっていたこともあって、用地買収がどの程度進んでいたかにもよるが、池上電気鉄道と洗足田園都市がお互い影響し合った時期があったはずである。というのも、この池上電気鉄道の計画(目黒~池上~大森)と荏原電気鉄道の計画路線(大井~大岡山~旭野[荏原郡調布村大字下沼部字旭野。今日の田園調布駅やや南側])は互いに補完しあう関係であったからだ。
しかし、荏原電気鉄道の計画を田園都市株式会社が引き継いだ(免許等を無償譲渡)あたりから、この提携が怪しくなっており、目黒蒲田電鉄設立前までに鉄道敷設免許申請を行った第二期線(千束~目黒間)の申請によって、この提携は完全になくなった。言うまでもなく、この田園都市株式会社第二期線は、途中の経路(経由地)は異なるが、始点(見方によっては終点)が目黒駅と完全に池上電気鉄道の計画線と競合している。つまり、田園都市株式会社は自らの分譲地から目黒駅までの鉄道を池上電気鉄道に頼ることから、自らの手によって建設するという方針転換を行ったことにより、相前後して提携関係は解消したというわけである。
田園都市株式会社の第二期線は、千束(碑文谷)~目黒駅間として申請されたが、ほぼ今日の東急目黒線の目黒~洗足間と一致している。では、この第二期線計画の前、第一期線(大井町~千束~多摩川)と池上電気鉄道計画線とは、どういう位置関係にあったのだろうか。ここで、今日の洗足五叉路の近辺に初期の洗足(千束)駅が計画された可能性を指摘したい。
本当なら図版を交えた方がいいのだが、作図には時間がかかるので、総括編とはしつつも作図完了後には補完したいと考えている。といったところで、続きは総括編6へ続きます。今回はここまで。
今回も興味深く拝読させていただきました。
ところで一つお尋ねしたいのですが、上記にある「旭野」とは、今で言う、どのあたりなのでしょうか?
パソコンで「旭野」と検索したら、愛知県と北海道の地名が出てきてしまったのですが。
投稿情報: りっこ | 2010/02/03 17:46
りっこ様、コメントありがとうございます。
「旭野」は、荏原郡調布村大字下沼部の小字で、大雑把に言えば今日の田園調布二丁目あたりとなります。仰せの通り、「旭野」だけではぴんとこないので、本文中にも注釈を入れました。
投稿情報: XWIN II | 2010/02/04 06:40
了解いたしました。ありがとうございました。
字名。。今ではなかなか目にするチャンスがありませんよね。
私も屋敷下とか清水頭とか、今回初めて知りました。
ありがたいことだと思っております。
投稿情報: りっこ | 2010/02/04 06:42