さて、今回は一枚の写真のコーナーです。では、ご覧いただこう。
この写真は、「栗山久次郎翁略伝」(昭和10年4月15日発行)に掲載されているもので、以前当blogにおいても「自由が丘、地名の由来 その3」でわずかながらふれたことがあるが、本書は長年碑衾村(現在の東京都目黒区のおおよそ西半分)長をつとめ、その後、現在の自由が丘地区を耕地整理(区画整理)によって発展させた衾西部耕地整理組合の組合長もつとめ、さらに東京横浜電鉄(武蔵電気鉄道)の五島専務との交渉によって、自由が丘駅(当時は九品仏前駅)を碑衾村内に設置させる(駅予定地より北寄りに移動。もとは村境の九品仏側辺りが駅予定地だった)など、地域に多大な貢献をしただけでなく、「自由ヶ丘」という地名の生みの親でもある(発案者は別だが、衾西部耕地整理組合地域を一つの大字として自由ヶ丘を申請できたのは、翁に負うところが大きい)。
それほど地域に貢献した方なので、昭和9年(1934年)亡くなられた後に銅像が建てられたり、衾西部耕地整理組合から「栗山久次郎翁略伝」のような本がリリースされるのも頷けるものである。
さて、写真の解説と行こう。今回は自由が丘と言いつつも、残念ながら自由ヶ丘駅周辺はまったく写っていない。主役は栗山翁なので、栗山翁の生家が「×」印で示されており、本写真では橙色で示した道路の上に見える「×」印がそれである。一方、もう一つの「×」は当地域で最も重要な所と言える熊野神社(写真では緑色)。要するに、この二つの「×」印がこの写真のメインというわけである。
写真は上が西、左が南、右が北、下が東となっている。下方向を斜めに直線として見えるのが、東京横浜電鉄線(現 東急東横線)。これを鍵状に横断している黄色く表した道路が、今日にいう自由通りである。これを南方に進むと坂を上った先に東急目黒線奥沢駅横に出るが、そもそもこの地域の耕地整理組合は、奥沢駅まで通ずる本道路を拡幅するついでに耕地整理も合わせて行おうというのがきっかけだったので、周辺地域と比べると耕地整理が具体化したのはやや遅れ気味だったと言えるだろう。
ほか、上に水色で示したのは九品仏川。直線化されていることからわかるように、ここも耕地整理の結果の賜である。そして中央やや上よりの橙色で示したのは、今日のバス通りである。途中、屈曲する本道路だが、耕地整理前よりの農道の形状をそのまま維持したため、直線化されなかった。
こうして概観してみると、自由ヶ丘駅(九品仏前駅)ができてまだ10年も経たない昭和初期(たぶん一桁)に、ここまで当地域が発展していたことに驚かされる。一方、写真上方にはまだまだ農地が多く確認されるので、田園調布駅近辺と同じく一部地域だけが市街地化されていただけということも確認できる。
といったところで、今回はここまで。
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