新年明けましておめでとうございます。
2022年は1月にBlog記事を6本書いたので、今年は久々に2桁行くかと思っていたが、2月以降、1本も記事を書かなかった(苦失笑)。結果、またしても1桁で終わってしまった。年頭から悔やんでも仕方がないので、目標としては2桁に置き、謙虚に進めていこうと思う。
さて、人生後半戦に入って久しいが(人生100年などまやかし)、残り時間から逆算して何ができるかを考えるようになってきた。無論、不慮の事故や思いがけない病などで、終点が確実でない以上、それらを踏まえてどうしていくかは、あまり考えすぎても意味がないと感じてもいる。
一方で、単に齢だけを重ねて、特別養護老人ホームや有料老人ホーム、あるいは認知症高齢者グループホームや介護医療院(言ってしまえば介護給付に付け替えられた老人病院)で燻り続けるのも、若い将来ある人の足を引っ張るだけとなるので、それは避けたい。色々な意見はあるが、社会に役立たないのであれば、人生劇場から退場した方がいいとさえ感じている。経済的にゆとりがないところで、健常者以外が生き残ることなどできない(あるいは著しく困難)からだ。この点から、老人優遇政治はもうやめた方が良いとなるのである。
民主主義の根本は、一人一票が等しくあると言うが、国政選挙をはじめ、ありとあらゆる選挙は平等ではない。機会が平等で参加は自由というならまだしも、一票の格差問題や地方自治体間の格差など、挙げれば枚挙に暇がないほど、実際には平等でも何でもない。
さらに、本当に一人一票に価値があるのだろうか。先にふれた健常でない高齢者と働き盛りの若中年者は、同じで本当にいいのだろうか。世代間で格差があるのに、世代間人口の大きさ差。そして、事実上、施設長が思いのままに投票できてしまう高齢者施設の実態。最近、話題となっている宗教上からの洗脳紛い(あえて紛いをつけておく)による特定候補者への投票集中。大前提として、一人一票が機能しない土俵が続く中、これを放置していて平等だと強弁できるのか。
無論、だからといって独裁や専制主義がいいとはならない。民主主義の前提条件を適切に理解し、機能しないものを見つければ、それをただちに是正すべきというわけだ。自分で判断できない者と、自分で判断できる者の差を認識し、判断できない者が他者に利用されないよう規制をかけるべき、という方向性である。
当然、選挙運動は現状ではダメなのは論を俟たない。一方で、選挙民もバカであっていいが、無知であってはならない。つまりは教養・教育の問題に行き着く。義務教育、という言葉があるように、これは民主主義の大前提である。ここから落後した者(くどいが、バカであっていいが無知はダメ)は、義務を果たしていないので、権利も与えられない。何でもかんでも、権利を与えてしまうことに問題があるのだ。
老人優遇政治の基盤は、どこにあるのか。上述の通り、見直すべき所は山積している。そんなことを正月早々思いつつ、初詣にでも出かけようと考えつつ、今回はここまで。
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