総括編1では、ほとんど作図に時間を費やしてしまったが、せっかく作った図なので、時代の変遷毎に対応した図とすることにした。よって、総括編2はこの図をもとに、旗ヶ岡駅と東洗足駅が統合して誕生した旗の台駅が、周囲一帯の地名(町名)を塗り替えるまでの流れを示し、この部分の歴史を振り返ってみたいと思う。
では、まず総括編1で示した図をもう一度掲示しよう。
昭和2年(1927年)、目黒蒲田電鉄の東洗足駅と池上電気鉄道の旗ヶ岡駅が相次いで開業した時には、この地域は東京府荏原郡荏原町(直前は平塚町)の大字中延に属していた。大字中延の「中延」という名は、両社の路線それぞれの駅名にも採用され(目蒲は「中延」、池上は「荏原中延」)ていたが、両線交差部に近い両駅には「東洗足」と「旗ヶ岡」が採用された。「東洗足」は、目黒蒲田電鉄の親会社というべき田園都市株式会社の展開する分譲地、洗足田園都市の東端(正確に言えば東南端からやや先)に位置すること、そして洗足という名がブランド化していることも採用理由としてあっただろう。本来、この地域は「洗足」とは無縁なのだが、実際このあたりまで洗足ブランドの進出は進んでいたのである(洗足教会、洗足幼稚園、洗足パン等)。
一方、「旗ヶ岡」は目黒蒲田電鉄大井線の荏原町駅(開業前の予定駅名は「法蓮寺前」で、まさに駅前そのものというネーミングだった。なお、平塚町から荏原町に町名変更したのは大井線開業5日前)の方が近いのだが、法蓮寺に隣接する旗岡八幡宮(神社)に因み、「旗ヶ岡」とした。つまり、「東洗足」も「旗ヶ岡」も駅周辺の実態とはやや離れたネーミングだったのである。
両線交差部分に乗換駅を設けるという発想が昭和初期にあったかどうかは別として、昭和初期までには既に目黒蒲田電鉄と池上電気鉄道の対立は決定的というまで先鋭化していた(例を挙げれば「路線案内[目蒲・池上]未記載問題」や「玉川村乗入問題」等)ので、交差部分に乗り換えを考慮した駅を設置しなかったばかりか、双方の乗り換えなど一切無視した出入口構造だった。しかし、いざ開業してからは乗降客のクレームに応える形で、両社とも自社所有地を活用するなどして両駅間の短絡道まで接続する工夫を実現するまでになった。
そして、昭和7年(1932年)10月1日、東京府荏原郡荏原町は東京市に合併され、東京市荏原区として東京35区の一つを構成するようになる。同時に荏原町の大字だった中延は、同じ区域をもって中延町となった(荏原町は大字区域をそのまま町とした)。つまり、「東洗足」及び「旗ヶ岡」のエリアはもともと大字中延だったのだが、小字名が廃されたことにより、単に中延町○○番地と表されることになった(住所の書き方としてはいちいち小字名を書かない例もあったが、耕地整理に伴う地番変更で混乱していた状況に拍車をかけてしまった)。
地図上は中延町一色となって面白くないので、当時のバス路線と停留所名を補入しておいた。赤い点線は池上電気鉄道の路線バス、青い点線は目黒蒲田電鉄の路線バスルートを示す。さすがに池上電気鉄道のバスといえども、東洗足駅を無視してはいない。むしろ、目蒲の客を奪ってやろうくらいの勢いかもしれないが…。また、ルート上やむをえないのかもしれないが、鉄道同様にバス停留所も両社それぞれ離れたところに「東洗足駅前」バス停留所を設置している。
東京市に合併されて10年も経たない昭和16年(1941年)4月1日、荏原区は大規模な町名変更を実施する。先にもふれたように、荏原区は荏原町時代の大字をそのまま町としてしまったために、人口増加と家屋稠密で郵便物の誤配も多く、行政効率も著しく低下を来していた。このため、戦時体制に進んでいく中、大字をそのまま町としたのは不合理だとして町会を隣組制度に組み替えすることも相まって、大幅な町名変更、町会整理を行った。一部の例外を除き、基本的には一町丁目一町会とされ、おおまかなかつての大字区画(町区画)は維持されたものの、大胆に再編成されたと言っていい。
東洗足・旗ヶ岡エリアは中延町一色から、西中延、平塚となり各丁目にも区画されたことから、荏原町時代の小字よりも区画が増えた。地番はそのまま継承されたが、町丁目が細分化されたことから町区画は近代化(効率化)されたといえる。しかし、同時に町会区画と同一化させたことも理由の一つなのか、あるいは別の理由かは調査できていないが、第二京浜国道(当時は新京浜国道)や拡幅された中原街道といった、境界としてふさわしいと思われる部分で区画されていないのが気になるところではある。
と、長くなってきたので、この辺で次回に続くとします。最初に書いた旗の台までは、総括編2ではふれられずじまいでしたので、総括編3では何とか…(笑)。
小生の戸籍簿は大字中延の1000番代で、洗足田園都市が区画整理を行った後も畑地の地番を踏襲しているようです。当時は不動産登記のための番号と郵便物の宛先を一緒にしていたために混乱したのでしょう。今日でも鵜の木の登記所で申請する時は住居表示と地番との対照表を調べて、地番で申請します。外国では郵便物のための ADDRESSとLOT NO.は区別されています。土地に執着が無い英国人のなかには保存登記すらしていない人もいます。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/01/16 19:30
XWIN II様
旗が岡エリアのバス停
池上と目蒲のバスの駅名の関係がはっきりしました。有り難うございます。旗が岡駅前バス停から駅までの商店街はかなり賑やかで今日のキャバクラに相当するカフェーまであったように記憶しています。小学校の級友の洋服屋がありました。本屋の太平堂もこの近くでした。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/01/16 19:42
また一つ、勉強になりました。ありがとうございました!
つまり、東洗足のバス停の位置が、かなりずれているのは、これは運営主体が違う、ということだったのですね。そうか……そうだったのか。と思いました。
すごくわかりやすい「図解で示す東洗足と旗ヶ岡」です。皆に教えてあげたい、地元の歴史です。いろんなことがわかりました。感謝申し上げます。
このブログは、本当に本当にステキです!
ちなみに、池上電気鉄道の路線バスの「東洗足駅前」は、昭和8年の商工地図によると、「花光園」という花屋さんの前になっています。
そしてこの花光園は、私の小さいころから、今でもずっと存続しています。
昭和初期から平成へ。ずっと歴史を見てきたお店なのだなぁと。何だかお店を見直してしまいましたよ。この後もずっと続いてくれるといいなと思いました。
投稿情報: りっこ | 2010/01/16 21:14
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
洗足田園都市と言えば、現在、資料収集及び研究中の題材の一つですが、現時点で判明していない疑問があるのです。それは、洗足田園都市の耕地整理(区画整理)は、いったい誰が行ったのか、というものです。
現在の東急目黒線洗足駅一帯のいわゆる第一期分(目黒区洗足二丁目、品川区小山七丁目、大田区北千束二丁目の各一部)は田園都市株式会社が土地買収したところに、一人施行で耕地整理組合を立ち上げ実施したのは確実です。
ところが第二期分となる現在の旗の台六丁目(大字中延)にあたる部分はどうだったのか、と。さらに後に分譲される北千束駅方面は、馬込村の千束耕地整理組合が実施した一部を分譲したに過ぎません。
街区パターンを見る限りでは、隣接する平塚耕地整理組合が耕地整理した土地を田園都市株式会社が分譲したようにも見えるのですが、一部道路がかみ合っていないところもあったりと、決定打が見つかっていないのが現状です。
まぁ、ゆっくり検討するつもりですが。
投稿情報: XWIN II | 2010/01/16 22:09
りっこ様、コメントありがとうございます。
お褒めにあずかり、穴があったら入りたいです。狢窪あたりでもいいんですが(笑)。
とそれはともかく「花光園」のお話し、ありがとうございます。花屋さんと言えば、東のつかない洗足駅近くにある「花政」という花屋さんも洗足田園都市の初期(昭和一桁)からあったことが商工地図で確認できており、今も健在です。花屋さんって息が長いお店なんでしょうか?
もう一つ、洗足がらみでいきますと、以前は旗の台にも支店があった、洗足駅前にある「ロンシェール」というパン屋さんはかつて洗足パンといい、東洗足駅前(荏原区中延町1225番地)にあったとのこと。東洗足パンとしなかった理由は…まあどうでもいいんですが、前にも記したように点と点とが線として有機的につながってくるのが見えてきたって感じがします。
投稿情報: XWIN II | 2010/01/16 22:19
XWIN II様
地価の高騰のため田園調布のような形の造成ができなかったのは確かなようです。私の住んでいたところから環七にむかって大森区との境界線に達すると舗装が大幅に遅れたことを記憶しています。それに加えて馬込村と碑衾村と異なる行政区域に跨がっていたので後の目黒区洗足という変則的なものとなっています。洗足駅そのものも目黒区にあったとおもいます。洗足田園都市が当初は目黒区を含んでいたのではないかと思います。当時国営化されるまで電力供給も行っていましたが正確なサービスエリアは知りません。停電したとき田園都市に電話していたことを覚えています。私の住んでいた所から1ブロック東に行くとそこは鏑木氏の土地で買収に応じなかったと聞いています。もっとも大森区に属するはずの元々荏原郡の玉川村が世田谷区に持っていかれ、苦肉の策で玉川田園調布となっていますので、二つの区に跨がったことでは同様です。渋沢様との写真では荏原郡の大地主が顔を揃えているので、最初の田園都市構想は荏原郡というもっと大きな構想だったのでしょう。
洗足ぱンですが、大井町線の下り線路に沿って文房具屋と和菓子があった所の並びにあり、よくパンを買ったものです。黒柳徹子のテレビの番組で父君が洗足パンのパンにたっぷりバターを塗ったもの好まれたと話しておられます。またロンシェールで昔話をしているところが同時に放映されました。そんな昔ではなかったようにきおくしております。東洗足としなかったのは洗足の方が高級感があったのではないでしょうか。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/01/16 22:53
あ。洗足にも「花政」ってあるのですね。
私がよく知っているのは、花光園のほかは、長原駅のほぼ正面にある「花政」です。こちらも長い!地図で確認しても、昭和30年代から、今に至るまで、ずっと営業しております。他のお店は、様変わりが激しいんですが。花屋さんというのは、どこかと提携しているのでしょうかね。例えば葬儀社とか(笑)割とどのお店も堅実に営業しているように思います。
ロンシェール
好きなパン屋さんです。ホームページで「洗足パン」の写真が載っていますね。私の生まれる前なんでわからないんですが、父の見せたら「何となく記憶がある」とのこと。
木造院様のコメント中の「大井町線の下り線路に沿って文房具屋の並び」
文房具屋さんは、今でもある「ほうらいや」さんでしょうか。位置的にはそうなんですが。三浦屋というおそばやさんがあり、その三浦屋さんとほうらいやさんの間ごろだろうか?とかいろいろ考えています。
ロンシェールは、長原駅近くにも長くあり、また、池上線旗の台駅至近にもありました。どちらも閉店してしまいました。特に旗の台駅の方は去年だったかぐらいです。残念です。先日、洗足のロンシェールに買いにいきました。木造院様のおっしゃられた黒柳徹子氏思い出のパンが復刻されておりまして、売れ行きがとてもいいらしいです。私も買ってかえりましたが、とってもおいしかったです。このロンシェール本店だけは、続いてほしいと心から願っています。
投稿情報: りっこ | 2010/01/17 10:54
りっこ様
花政は昭和医大の前にあったように記憶しています。御見舞いにも売れていたのでしょう。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/01/17 18:53
もしかして、チェーン店?
「フローリスト 花政」って聞いたことがあるのですが(^_^)
投稿情報: りっこ | 2010/01/17 19:28
りっこ様、コメントありがとうございます。
「花政」いたるところにあるようですね。
「ロンシェール」、今日洗足田園都市エリアを散策ついでに見てきましたが、駅前にあるのだし洗足パンという名前でいいのではないか、と余計なことを思ってしまいました。現在三代目、ということのようですが、あまりぱっとしない商店街の中ではがんばっているような印象を受けました。
そして、長原駅についてですが、東洗足駅から池上電気鉄道に乗り換える際、旗ヶ岡以外に長原駅という選択肢があるというのが、実はぴんと来ませんでした。理由は環七通り。あの25~30メートル級の道路と陸橋のため、あそこで世界が区切られてしまっているんですね。戦前の、池上電気鉄道が健在だった頃は計画はあったものの、道路自体は数メートルの幅員だったので、地域が分断されることなくあったのかな、と。であれば、東洗足駅を三間道路側に抜けてまっすぐ進み、今、旗の台整形外科のある角を左に右にと曲がれば、もう長原駅ですからね。木造院電車両マニア様が旗ヶ岡駅への坂を考えれば、長原駅の方がいいようなことをおっしゃっておられたことから、本日実際に試してみました。環七と陸橋さえなければ、こっちもありかなと。距離的には旗ヶ岡駅の方がわずかに近く、一駅分五反田駅に近くなるので、五反田方面なら旗ヶ岡ですが、逆に蒲田方面に行くのなら長原駅でいいような…。
採り上げたいネタが多い地域歴史研究ではありますが、池上電気鉄道ネタの優先順位は高いので長原駅もそんなに遠くない将来、採り上げるつもりでいます。
そうそう、フローリスト花政でもあるようです。以下URLを参照ください。
http://www.87masa.com/
投稿情報: XWIN II | 2010/01/17 19:57
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
本日、寒かったですが天気がよかったので洗足田園都市として分譲された地域を巡ってきました。やはり、机上で知る知識だけではだめだと、歩いてみることでいくつもの発見ができました。もっとも、当時を知るというレベルには到達できるはずもなく、80年以上の年月を痛感せずにはいられませんでした。唯一の例外は洗足会館。昭和6年(1931年)竣功というので、来年で80年を迎える建築物。当時の佇まいは建設当時の写真を持っているので、さすがに年月は経っているものの、残っているだけで価値があると感じました。これを壊して区の施設にするとか話があるようですが、保存するのは難しいのでしょうね。同じものを建てるというのは難しいので、西洋のように残す文化があるといいのですが。
さて、鏑木氏といえば、江戸期には中延村の名主様。昭和大学には土地を賃借し(その後売却)、第二延山小学校等の土地提供も行っていたはずですが、田園都市には非協力的だったのはなぜか。確かに、大正初期に渋沢邸を訪問した荏原郡各村の名士の中には含まれていませんでした…が。
なお、田園都市株式会社の電力事業エリアは、各種文献によれば「自社分譲地に限る」という形でスタートしたようですが、その後はどうなったのかは…。記憶違いでなければ、東京市電気局30年史あたりに電力事業者一覧地図のようなものが掲載されていたので、確認してみたいと思います。
投稿情報: XWIN II | 2010/01/17 19:58
「ぱっとしない商店街」
おっしゃられるとおりですf(^ー^;
あそこは、雅子妃の実家である、小和田邸から一番近い商店街でもありまして。
我が友人は、洗足駅の「東急ストア」で、小和田夫人を何回か見かけています。いつも、鬱々とした表情で歩いておられる、ということで。
いつも友人とは「我々のような、一般庶民が一番シアワセかもね」と話をしています。
我が実家は、洗足商店街の中にあった「川京」という鰻屋が好きで、出前を取っておりました。ここは小和田宅にも出入りの鰻屋さんで、はやっていたのですが、あるとき急に閉店。店主の都合だったんでしょうか。ビックリしちゃいましたよ。
それから、三越バラエティという、「三越」のお店があり、ここには三越御用達の「ジョアン」というパン屋が入っておりました。「ロンシェール」にとっては強敵だったのではないでしょうか。三越バラエティがなくなってから、ロンシェールがここらあたりでは再興したような感じです。
長原も取り上げていただけるということで、大変嬉しく思っています。
楽しみにお待ちしています。
投稿情報: りっこ | 2010/01/17 21:54
XWIM II様
洗足会館は映画の上映や学生の文化事業でよく行きました。自治会との所有権を巡って戦後問題があったやに聞いています。隣の弁天池では子供が溺死した悲劇がありました。震災後の昭和モダニズムの建物も正田邸同様に消えていっくのかと思うと寂しい気がします。
小学校ではクラスメートに2人の鏑木氏がおり、去年クラス会でその内一人にお目にかかりました。
洗足田園都市の販売用の地図が沿革史に載っていたような気がしますが、南北にちぎれて細長いもののように記憶しています。放射状の交差点は駅から下った所にあり、私の住んでいた所は自治会では南台と呼ばれていました。特に高級官僚に対する公職追放令のあおりで住民も大部入れ替わりました。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/01/17 22:50
XWIN II様
洗足田園都市の補足説明ですが南北の間が有隣社とか言う震災後の復興計画による区画で分断されていますので田園調布のような連帯感が生まれなかったのかもしれません。
昭和医大の前のフローリスト花政は以前の場所からどこかへ移転しているようです。普通大病院と花屋と葬儀屋は3点セットです。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/01/18 10:28
りっこ様、コメントありがとうございます。
三越バラエティ、というとその昔?は三越エレガンスと言っていたところでしょうか。今では野村不動産の分譲マンションとなっている洗足五叉路のところの。
そして雅子様といえば、12月にお誕生日セールを商店街がやっているのは知っております。実際、ご実家は洗足田園都市エリア外ですが、洗足扱いされている関係なんでしょうね。
投稿情報: XWIN II | 2010/01/18 19:41
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
南台、東台、西台とあったのは、洗足会報の住人異動情報から確認できているのですが、どこが○○台なのかというエリアが判明しておりません。また、北台がないのは「北」は分譲地としては印象がよくないから?なんでしょう。
そして、洗足田園都市エリアを分断する、今で言う旗の台六丁目1番あたりの、あの細かい住宅地(米軍の空襲でも焼け残った)。何であそこだけ?というのが疑問だったのですが、鏑木氏が売らなかったと言うよりは「有隣社とか言う震災後の復興計画による区画」のために…というのは調査しきれていませんでした。
やはり、なかなか一筋縄では行きそうにないですね。
(本家と言うべき東急電鉄、東急不動産が社史において「正確なところわからない」的に評しているのだから当然なんですが。)
投稿情報: XWIN II | 2010/01/18 19:47
XWIN II様
震災復興に関わった有隣社の住宅地域は道幅が極端に狭く、別世界を形成していました。鏑木氏(第二延山小学校の西側の真上の岡の上に大邸宅があり大鏑木と呼んでいました。現在は昭和医大が立っています)の土地は俗に言う南台の東側で、有隣社住宅は旗の台6-1、2あたりの一画です。以前戸越銀座のところで有隣社住宅のことがブログで取り上げられました。中には駄菓子屋などあって下町ムードがあふれていました。洗足田園都市の住民代表は鈴木某(郵便局長)で、私と小学校で同年度の娘さんが婿養子を取って跡を継がれたましたが残念ながら他界されたと聞いており、情報を取ることは出来ません。鏑木君とは小学校の同窓会でお目に斯かる機会はありますが、生臭い話をするのが気が引けます。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/01/18 23:17
木造院電車両マニア様
小学校の同窓生である「鏑木様」ですが。
現、鏑木坂のご主人様でしょうか?
投稿情報: りっこ | 2010/01/19 09:24
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
旗の台6-1、2あたりの一画、あそこが関東大震災後に有隣社住宅となった、という流れからするとその前の土地所有者は誰だったのか、と。古い登記簿を調べればいいのでしょうが、どんどんどつぼにはまっていきそうな予感もします。
とは言いつつも、やはり洗足田園都市を語るには避けて通れないところかとも思いますので、今後の宿題とするつもりです。
貴重なお話し、ありがとうございました。
投稿情報: XWIN II | 2010/01/19 20:41
りっこ様
小学校の同窓生の鏑木君は鏑木坂の大邸宅の大鏑木ではありません。大勢の鏑木氏が在学していましたが、荏原区では議員などを務められた有力者が大勢います。皆さんそろって大地主です。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/01/19 22:42
XWIN II様
有隣社住宅のことをヤフーで調べましたが検索が下手なのかプロフォールが今一つかめません。田園都市が震災前のプロジェクトで有隣社住宅が震災復興事業であれば、震災を予知できないので田園都市が先手を打ち損なった可能性があります。古い登記簿も毀損したものは復刻しないので存在していることを祈るのみです。大井町線も当初は大岡山ではなく洗足を経由させる予定であったと沿革史に記載されていますので、調布地区のように地主との調整がうまくいかなかったのでしょう。どうしても都心に近い所から地価が高騰しますのでやむを得なかったのかもしれません。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/01/19 22:54
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
私は洗足田園都市が展開しにくかった理由の一つとして、池上電気鉄道の計画路線がこの付近を通過していたことが大きいと考えています。ただ、実際に池上電気鉄道が用地取得していたわけではないかもしれませんが。
耕地整理(区画整理)は小規模地主が多いところはほとんどうまくいっていないですね。平塚村よりもさらに山手線の駅が古くから近くにあった目黒村では、多くの地域でうまくいかなかったようです。
投稿情報: XWIN II | 2010/01/20 07:35
XWIN II様
洗足田園都市
遠い昔の記憶を辿りながら思いついたことを述べさせていただきます。
第一に戦時ムードが高まったとき学生団を結成して洗足会館に集まりましたが、その時のメンバーの居住地区を思い出しました。
第二に防空演習の参加者の居住地区を思い出しました。
南台では旗の台6丁目の
13-14-15-16-17-18-19の四角の中でした。4も一部含まれているような気がしますが確かではありません。
小山7丁目では
4から16迄です。
住居表示を決定する時に鏑木氏の所有地を意識したかどうかわかりませんが、これも判断材料の一部になると思ってあえて意見を述べさせていただきました。
人間は意外と排他的気持ちを持つもので自治会を作る時も田園都市の住民だけをまとめる気持ちがあったのかもしれません。
また夏期に散水車が舗装されていない道路に水を撒いていましたが、サービスエリアはこの地域に限られていました。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/01/20 16:12
XWIN II様
本日家内が池上総合病院で診療を受けている間、時間つぶしに太田文化の森の図書室に行って地図で見る大田区を改めてみましたが、再装幀されており状態が良好でした。その(1)127ペイジを見ると住居表示改訂前の小山8
丁目がほぼ南台に相当します。自分の住んでいた所の住所を忘れる程何回も住所が変わりました。小山7丁目もほぼ田園都市です。ミスリーディングな情報を流して申し訳ありません。家内の病気もたいしたことはありませんでした。
またついでですが、その(2)7、8ペイジには初代雪谷駅が示されており、アルプス電気の裏の通りが中原街道を横切ったところからやや五反田よりの駅への道は現在材料置き場になっています。
また36ペイジには道塚の駅が示されています。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/01/21 17:44
木造院電車両マニア様、貴重なコメントありがとうございます。
洗足田園都市に関するお話し、どうもありがとうございます。可能であれば、来週辺りに何とか一日ないし半日休暇を得て公文書館等に行ってみて、図書館では収集不可能な資料を漁ってこようかと考えています。ただ、実際に体験したものと現在の視点からの後学では、まったく意味合い(見当違い)の場合も少なくないので、やはりこのようなお話しをいただけることは感謝以外の何物でもありません。重ねてありがとうございます。
昭和30年代後半に成立し、現在も有効となっている住居表示制度ですが、やはり地域との軋轢を無視するには行かなかったことは、不自然な境界線(政省令とは異なる)があることや、文京区の弥生復活の件をはじめとする多数の反対運動からも、あったことが伺えます。なので、地域の有力者の意見が重きをなしたことは、当然だったかと。
地図で見る大田区、なかなかに見所が多い資料です。道塚駅(本門寺道駅)に関しては、また別の話題を採り上げる予定でおります(予定が多く何から書こうか、という悩みはあります)。
投稿情報: XWIN II | 2010/01/22 06:57
XWIN II様
洗足会報
閲覧可能ですか?、ふるい方でしたら名前を覚えていますので区画の推定ができます。私の推定では東台は小山7
丁目地区、西台は目黒区洗足地区、南台は既述のとおり小山8丁目だろうと思います。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/01/22 10:45
XWIN II様
YAFOOに掲載される条件は何ですか?
情報は投稿する前に慎重に検証していますが、責任重大です。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/01/28 10:07
>隣接する平塚耕地整理組合が耕地整理した土地を田園都市株式会社が分譲したようにも見えるのです
こちらの方にコメントをつけておきますね。
平塚町第二耕地整理組合 第一工区は、字 谷向・東・源氏前・平塚・矢橋・牧野・瀬原・上・屋敷下・大原北、それに四段田の一部を含んだ地域なので、この中に旗の台6丁目がかなり含まれていると思います。
総面積 104町1反15歩6合8勺
荘筆数 948筆
所有者数 313名 外に無換地3名
昭和8年1月14日 現在
投稿情報: りっこ | 2010/05/12 08:24
りっこ様、コメントありがとうございます&お手数をおかけして恐縮です。
A3地図にして12枚。中でも、字大原北あたり(田園都市分譲地)が図面上どうなっているのか、に興味津々です。図を見ないで、の推論ですが、田園都市分譲地とそうでない部分との境界で一部道路が食い違っている&道路幅員が異なることから、当該部分は耕地整理組合の事業地から外れていたのかな?と考えています。
さて、正解は?
投稿情報: XWIN II | 2010/05/12 19:28