当Blog記事において、資料的価値の高い「回想の東京急行」シリーズに記載されている誤りと思われる部分について、池上電気鉄道並びに目黒蒲田電鉄にかかわるところのみ検証してきた。
「回想の東京急行Ⅰ」における池上線関連の誤りを検証する
「回想の東京急行Ⅱ」における大井町線関連の誤りを検証する
「回想の東京急行Ⅱ」における目蒲線関連の誤りを検証する
そして、今回は「回想の東京急行」シリーズの著者の一人、宮田道一氏が2008年に著した「東急の駅 今昔・昭和の面影」(JTBパブリッシング)について検証していきたいと思う。本書は、最近の著者の研究成果?を踏まえてか、「回想の東京急行」シリーズとは異なる記述も見られるが、これを受けて単に誤りと思われる箇所の指摘にとどめず、私なりの考察も交えておおくりしていきたいと考える。
著者は本書において、「筆が及ばず至らぬ部分もあろうかと恐れつつ、寛大なる読者のご理解をお願いする次第である」と記しているように、このような文章は読むは易し、書くは難しである。私自身、拙文レベルだがBlogでこのような文書を公開しているので、著者の気持ちは(たぶん)わかっている。とはいえ、恐れて筆が進まないのと同じく、恐れて過ちを指摘しないのもまた同じだろう。というわけで、まずは本書106ページからの池上線から。これまでいくつかの文献等を見てきても、池上線の間違いが他を圧倒していたので、本書に対しても実力を確認するため、これから行くことにする。
P106「しかし、盲腸線のために乗客が少なく、すぐに単線としたが、黒字になる可能性はなかった。」
これは、奥沢線(本書でも新奥沢線と表記しているが誤り)のことをふれたものだが、「すぐに単線とした」という根拠が他書にも見えない。私が国立公文書館で調査したところ、奥沢線の複線から単線への当局への許可申請は開業して3年弱の昭和6年(1931年)になってからである。それより以前に勝手に単線化したのであれば話は別だが、当時は高柳体制ではあるまいし、そこまでひどくはなかったと思う。仮に、許可申請以降に単線化したのであれば、廃止されるまでわずか7年程度の奥沢線の歴史のうち、最初の3年弱の期間が複線であったのだから、寿命の3分の1ほどは複線である。これからすると「すぐに単線化した」という表現は正当でないとなる。もし、筆者の言うとおりなら、許可申請以前に勝手に単線化し、それも昭和4年(1929年)までには単線していなければ、すぐにという表現とならない。これらのことを総合すれば、筆者の誤った先入観か他文献からの無批判引用かと思われる。
P111「島式ホームが、第二京浜国道の北側に接して掘割の中に設けられ、北側の踏切側下り線側に本屋があった。さらに南側には橋上駅舎があって国道の跨線橋ぎわであった。」
桐ヶ谷駅の項。桐ヶ谷駅に関しては、当Blogでも以前分析したことがあったが、まだ決定打を放つに至っていない。ただ、ここに引用する文は、開業した昭和2年(1927年)から空襲を受けて焼失する昭和20年(1945年)までの18年間、もう少し範囲を狭めれば、桐ヶ谷駅付近の新京浜国道(第二京浜国道)が新設された昭和14年(1939年)までの12年間の駅の歴史の変遷を、すべて同一時間軸上に置いていることに難がある。まず、桐ヶ谷駅の南側と北側の出入口(改札)について未だ確証を得ていないが、複数の地図資料等を確認すると同時期に存在していない可能性が高い。現存する地図資料・航空写真等では駅南側の橋上駅舎の存在しか確認できず、駅北側の本屋は確認できていない。しかし、池上電気鉄道作成の桐ヶ谷駅の図面や平成初期まで残されていた遺構から、まったくその存在を無視することはできない。なので、駅開設当初は橋上駅舎はなく、北側出入口のみであったものが、利便性等から南側に出入口を確保した流れではないかと予想できる。無論、北側と南側と同時に出入口が存在した可能性はないわけではないが、昭和8年(1933年)の航空写真を確認する限りにおいては、北側の駅本屋の存在を確認できていない。そればかりか、駅ホームの位置等も北側に抜ける通路のようなものも見当たらないので、遅くともこれまでには南側にのみ出入口があったことを裏付ける。
そして、新京浜国道については、桐ヶ谷駅開設後10年以上を経てからこの近辺は拡幅されている。廃止直前には国道の跨線橋ぎわであったのは確かだが、駅の寿命からすれば、後半の6年ほどの期間のみでしかない。書き方は難しいが、文脈からどうにも第二京浜国道があったことを前提としたいようで、このことからの推測だが、著者は第二京浜国道がいつ作られたのかというのを理解していない可能性を指摘できる。
P112「銀座を冠したネーミングは全国に見られるが、ここが最古である。」
戸越銀座駅の項。これは著者が云々でなく、戸越銀座商店街(3商店会の連合)自身も主張している(最も古くという主張のほか、銀座の煉瓦を使用している云々で正当性をも主張)ので、まぁそういうことだが、最古かと言われるとあくまで自分(商店街)の持つ知識のみで判定しているような印象を持つ。というのは、戸越銀座商店街を構成する現在3つある商店街(東から銀六会、中央街、商栄会)あるが、最も最古のものは戸越銀座駅から最も遠い銀六会であり、この商店街は小規模でありながら関東大震災前から存在していたが、銀六会から西側の今日に言う中央街及び商栄会は耕地整理前の状態で、商店街のメインストリートとなる道路もなく、無論、人家もなかった。単に低地の谷戸田に過ぎなかったのである。
これが耕地整理によって今日の道路パターンが完成するが、昭和に入る前までは最寄り駅は山手線の大崎駅であり、商店街の発展方向は銀六会から中央街方向へと発展していく。そして、昭和2年(1927年)に池上電気鉄道によって戸越銀座駅が開設される流れとなる。この流れから、戸越銀座という銀座を付けたのは銀六会に由来すると予想されるし、そもそも銀六会という名前に「銀座」の元祖であることを伺わせる。だが、現時点において「なぜ銀六会なのか?」という調査はできていない。ここが本当に「○○銀座」の元祖たる所以を持つのか、それとも実は小山銀座(武蔵小山駅近く)等が先行していた、あるいは同時期だったのか。いずれは調査したいと思う。
なお、銀座の煉瓦云々の話は、関東大震災で都心で倒壊した建物の残骸を耕地整理作業で低地を埋めるための作業で必要とした際、そういった縁の話が出たのではないか、と私は考える(洗足池の日蓮上人袈裟掛松伝承と同様)。理由は、太平洋戦争後の空襲による建物等の残骸処分先として、河川(水路)を埋め立てたりした行為と同様だからである。
P114「駅の西側には、池上線開通後に昭和医学専門学校が設置され、今日の昭和大学へと発展している。」
旗ヶ岡駅の項。正しいがあえてふれるのは、この地に用地取得(賃借)したのは、大正15年(1926年)のことで池上電気鉄道が敷設される(着工する)前であることを強調するためである。
P115「昭和26年(1951)5月1日移転、大井町線東洗足と統合、旗ノ台と改称」「昭和41年(1966)1月20日 旗の台と改称」
このような事実はなく、最初から旗の台駅である。「回想の東京急行Ⅰ」で見られた誤りと同様だが、「回想の東京急行Ⅱ」で自ら誤りと認めたのに本書でまた同じ誤りを繰り返すとは…。「回想の東京急行」は3人の共著だが、本書は宮田道一氏単独なので、この人の誤りだったのかと想像させる。東急電鉄出身ということ、またそのスジでは著名な鉄道ピクトリアル誌でも「東急電鉄と言えばこの人」、と言われるだけの方であるはずなのだが…。筆が及ばない…という次元の話ではないと思う。(あるいは駅のプロフィールは著者以外が書いたのか?)
P115「道路の周辺は畑であったが、まもなく商店街へ発展してゆく。」
旗の台駅の項。残念ながら旗の台駅開設どころか、戦後まもなくの航空写真はもちろん、昭和8年(1933年)の航空写真から見ても「何を言っているのか?」である。池上電気鉄道及び目黒蒲田電鉄大井町線の交差部分(無論、この文でいう東口道路周辺も)住宅が建て込んでおり、戦時中の建物強制疎開と米軍の空襲によって灰燼と帰した場所が、部分的かつわずかに戦後一時的に畑に転用された程度(ここに限らず、東京ではどこも似たようなもの)で、この表現は正確でない。
P116「東側は農地が続いていたが、関東大震災後、上池台住宅地として発展してゆく。」
長原駅の項。東側、というのがどこを指すのかにもよるが、この文に続く内容に「小池の釣り堀」にふれたものがあるので、現在の上池台一丁目及び四丁目あたり(小池の周辺)を指すのであれば、東側でなく南側となる。東京都水道局の上池台給水所方面を指すにしても東南となる。また、上池台とは昭和45年(1970年)の住居表示実施以降の町名で、それ以前は大部分が上池上町。そして住宅地を指すのであれば、小池台あるいは池の台(池ノ台)とする方が適切かと考える。
P117「千束ともいわれ、池の西側には、千束神社がある。」
洗足池駅の項。細かいが、千束八幡神社とした方がよい。
P119「最初の駅は、築堤がつきる位置の踏切道の南側にあり、相対式ホームであった。この踏切は、現在石川台1号と称されている。新奥沢線の開業にあわせて、150メートルほど蒲田寄りに相対式のまま移設され、二代目の駅となった。」
初代雪ヶ谷駅の項。当Blogで幾度となく取り上げているように、初代雪ヶ谷駅の位置は錯誤による誤りであって、これを関田克孝氏と本書の宮田道一氏が様々な書籍で悪説を蔓延させている実態があり、残念ながら性懲りもなく本書でもこれを採り上げている。いちいちここでは記さないが、リンク先記事「初代雪ヶ谷駅の場所を検討する(雪が谷大塚駅の歴史 番外編)」などに、いかにしてこの悪説が作られたのかを論考しているので参考にされたい。以前から当Blogをご覧いただいている方々には、重ねて述べるほどのものではないので指摘するにとどめておく。
P119「北側に亘り線があり、新奥沢行きの電車は折り返し運転であったが、まもなくもう1本のホームが西側に新設されて3面4線の規模となって、本屋は北西側に踏切に面して造られた。」
二代目雪ヶ谷駅の項。まもなくもう1本のホームが西側に新設されたのはいつか? 公文書にないからといって、その存在を否定するなどと言う暴論をかますつもりは毛頭ないが、昭和6年(1931年)に単線化されるまでの間に、奥沢線専用ホームのような形態を実現したのかという点においては、地図資料や写真資料も合わせてみても見つけることができない。ホームの位置などがある程度書かれている3,000分の1地形図(内務省版。おそらく昭和3~4年作成)を見ても、相対式ホームが2面あるだけにしか見えない。
「まもなく~」というのがいつなのか。このような疑義を抱かざるを得ないのは、国立公文書館で確認した昭和6年(1931年)3月18日付文書「奥沢線仮設工事方法変更ノ件」において、「奥沢線複線を仮設として単線に変更し、雪ヶ谷停車場に側線を新設」するという許可申請を鉄道省に出しており、その理由が「奥沢線運行は極めて閑散であるにもかかわらず、雪ヶ谷停車場においていちいち本線に入り発着するため、時間を浪費し、本線の運行支障が認められるので側線を設置し、単線運行としたい」とある。つまり、3面4線で運用していたならば、このような理由は想定できないし、側線を設けた結果として相対式ホームの一方(上り:五反田方面)に本線と奥沢線の2線が張り付くこととなったと見るべきだろう。何となく、ではあるが、これも奥沢線が複線運用されていたならばこうだったに違いないという勝手な思い込みによるものではないかと、他の例からも思えるのである(「回想の東京急行Ⅰ」にも同様の記載有)。
P119「専用ホームがせっかく出来あがっても、新奥沢線は盲腸線であり、沿線は未開発のため乗客も少なく、調布学園の生徒が最大の利用者であった。単線化した折に2面3線に縮小された。」
同じく二代目雪ヶ谷駅の項で上文の続き。これと合わせると二代目雪ヶ谷駅の全文となり、残念ながらすべてが誤りと言える内容である。まず、上にも示したように3面4線の根拠が見えない。なので専用ホーム云々のくだりや2面3線に縮小されたという部分もあやしい。そして新奥沢線でなく、奥沢線。さらには調布学園でなく、調布女学校(現在の名で言うのなら田園調布学園。調布学園と名乗るのは戦後。同ページに掲載されている古地図では「調布高女校」)が正しい。この項に限らないが、せっかく古地図を載せているのにまったくそれが活かされていない本文が多いのには、残念という以外の言葉が見つからない。
う~ん、予想以上に長くなってきた。池上線の後半部分は、また次回とします。
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