前回のその6から三週間以上も空けてしまった。ちょいと地域歴史研究関連、中でも重箱隅つつき的なWikipedia日本語版や「回想の東京急行」書籍の誤り探しに時間を費やしたことが大きかった。という理由を述べつつ、今回は数えてその7。その6の最後の方はこんな感じだった。
IBM 386SLC及びIBM 486SLCは、Intel社の提供するマイクロプロセッサのラインナップではノートPCに採用できないという判断が働き、独自に製造したというわけである。ノートPCで利用できないと判断されたのは、パフォーマンスと省電力性能のどちらにも該当するという、Intel社にとっては情けない理由だった(Intel社は1990年代初頭、AMD社やCyrix社等と80486系を巡る開発競争に追い立てられ、ノートPC向けプロセッサの開発どころではなかった)。i386SXは、Cyrix社の互換プロセッサの台頭に見られるように性能面で劣っていたばかりか、消費電力も他Intelプロセッサよりは低かったが、けっして満足できるレベルのものではなかったために、IBM社が自社開発し、それを自社のノートPC等に搭載するという流れが出てきたのである。
(その6より。)
というわけで、今回はこのIBM社独自プロセッサを搭載した初代Thinkpad日本語版についてふれていくことにしよう。
PS/55note C52 486SLC(北米ではThinkpad 700C)は、ThinkPad初代だが、既に最初機からその特徴であるTrack Pointをキーボード中央に配置し、配色は黒(PS/55 noteからいわゆるIBMビジネスカラーから黒へと脱皮した)。赤と黒というかっこいい組み合わせは、使っていて気分のいいもので、TFTカラー液晶ディスプレイ採用でVGAという解像度も、私のハートを鷲掴みにした。こういったマシンを手に入れて何をしたいのか、というのはユーザそれぞれだと思うが、やはり「持ち歩きたい」「見せびらかしたい」というのは若気の至りであるだろうが、私も当時は若かった。色んな所に行くにも持ち歩いたものである。加えて、当時は企業内においても私物PCの持ち込み規制などないに等しく、ある意味、持っていない方が仕事ができないと思われていたほどでもあった(当社の場合)。
しかし、だ。持ち運びを行うにつれて、気になる問題が起こってきた。それが筐体のゆがみというか、破損というか…。PS/55note C52 486SLCは、Thinkpad初代であり黒い弁当箱という異名は初代機からあったように、弁当箱そのものだった。今のようなノートPCとは違い、金属を使っていたわけでもなかったので、接合面というか縦と横の頂点部分に力が加わったからか、側面がへこんでしまう(部位毎奥にひっこんでしまうと言っていいだろうか。駅などで売られている幕の内弁当の容器を想像してほしい)ようになり、持ち運ぶのが怖くなってきた。なぜなら、ゆがんだ所をちょっと押しただけで側面が外れてしまうようになったからである。
この時からThinkpadの筐体の弱さが印象に残るようになり、のちにToshiba AmericaのTecraやPortegeに転向する大きなきっかけとして、トラウマ化する。もう一つのトラウマは初代VAIO 505の時に経験するが、これはその時代のことをふれるまで先送りする。とにもかくにも、気に入っていたPS/55note C52 486SLCを使うのに、恐れを抱くようになってきたのであった。
とはいえ、この当時は他に優れたカラーノートPCは他になく、PS/55note C52 486SLCの後継として、日本IBMでもThinkpadブランドをはじめて採用することになるThinkpad 720C、続くThinkpad 750Cを相次いで購入した。特に750Cは弁当箱筐体の強度が増し、独特の表面感はなくなってしまった(強化プラスチック然とした安っぽい印象)が、好んでよく使用することになる。マイクロプロセッサは、初代から引き続きIBM社独自のIBM 486SLC2(当時、ようやくクロックダブラが主流となってきた。今では外部バスクロックの何倍と数えるのが当たり前となっているが)を採用していたが、デスクトップPCで動作させるWindowsとの速度差、そして画面解像度に不満を覚えるようになり、ノートPCでWindows 3.1を利用するのが億劫になってきていた。
1990年、Windows 3.0がデビューしたとき、VGAで16色カラーといえば、SuperVGAを除けば最高峰であり、まったくこれで問題ないと思っていた。それどころか、日本標準の640×400よりも縦80ドット長いと喜んでさえいたものだった。だが、DOS/Vの登場によってIBM PC/AT互換機が当たり前のように売られるようになってくると、海の向こうで流行るものがそれほどのタイムラグを経ないで上陸するようになってきた。その中で、当時最も気になっていたのが、Windowsアクセラレータ。ビデオカード、VGA等と今日呼ばれるもので、これをATバス(のちにISAバスと言ったりもしたが、この頃はみんなATバスと言っていたはず)に接続すれば、たちまちSuperVGA解像度(800×600だったり1024×768だったり)が得られるだけでなく、Windowsの動作が劇的に速くなったのである(だからWindowsアクセラレータとも呼ばれたのだ)。
さらに時代の追い風を受けて、ATバスでは力不足だったこともあってVL-Busというプロセッサバスをそのまま外に引き出すような、今となってはおそろしいことをしていたローカルバスに接続するビデオカードも登場し、中でもWeitek社のアクセラレータチップを搭載したViper VLBは、文句なしのトップブランドだった。だが、当時のWindowsは日本語を通すのが難しく(英語版なら問題なし)、ディスプレイドライバもそれ専用であったので日本語Windowsでは使えないというジレンマに陥った。これを解決してくれたのが、C.F ComputingのDDDで作成者を神のように崇めたものだった。今から見れば、不具合は多かったが、まったく日本語が通らないことに比べれば些細なことだし、SYSTEM.INIやWIN.INI等を編集するのもどうという問題ではなかったのだ。
こんな感じで、圧倒的なパフォーマンス差を、特にWindows環境で示すようになってからは、私のノートPC熱は一時的に冷めてしまった。グラフィックスアクセラレータだけでなく、マイクロプロセッサも486DX2以上が当たり前であったので、386SXバスに跨がり続けていたノートPCでは、何もかもがデスクトップPCとは次元の異なるところとなってしまったからである。
私がノートPCに戻るきっかけを与えてくれたのは、Dynabookで一世を風靡した東芝だった。Windows 95の登場と共に東芝は小型PC Libretto 20を発表した。これに私は飛びついてしまったのである。
Libretto 20は、今日で言えばVAIO Pと言っていいだろうか。とにかく、これまでにない小型PCでWindows 95が動作するというのは驚いた。「本当か?」という想いはあったが、価格も当時としては20万円を切るという安価だったので、初日に購入した。今でもあの小ささ、そして軽さは手に感触として残っている。搭載していたマイクロプロセッサは、AMD社の486互換チップ(Am5x86という名だが無論、P5=Pentium系ではなく486系)で75MHz動作のものだった。Librettoは初代とその後すぐに出した二代目を除けば、以降のマイクロプロセッサはひたすらIntel社のものばかりだったが、初代でAMD社のものを採用したのは、Intel社のラインナップに低消費電力で動作する486がなかったからであった。Libretto 20のヒットを受け、インテル日本法人(当時は日本にも開発・研究拠点があったが、Intel Israelとの戦いに敗れ閉鎖)はMobile版となるPentiumの開発を進めるようになる。その最初のものがPentium 75MHz版で、パッケージはTCPという今では見られなくなった軽量かつ薄いものだった(TCPのTはTapeでありビニールテープのように薄いパッケージだった)。これは、Libretto 50に採用されるようになり、小型PCにもPentiumが搭載されるというすごい時代になったものだということを思い出す。
一方、ノートPCにもWindowsアクセラレータが搭載されるようになってきた。まったくの最初期は、Cirus Logic社のCL7548等、デスクトップPC向けのグラフィックスアクセラレータのサブセット的なものに過ぎなかったが、それなりのパフォーマンスのものはChips and Technologies社のCT65535だった。このシリーズが高評価を得たからか、のちにChips and Technologies社はIntel社に買収され、Intelチップセットの統合グラフィックスを開発する源流となった。だが、この頃はGDIコマンドを高速に実行するよりも、グラフィックス(ビデオ)メモリをメインメモリやバスの帯域幅を占有することなく、いかに確保できるかが重要で、加えて3D処理もまだ想定外だったこともあって、グラフィックスチップにビデオメモリを統合するものが、ノートPCへのベストチョイスとなっていた。これがNeomagic社のNMシリーズである。この登場によって、事実上、ノートPC用グラフィックスチップはNeomagic社の寡占化が進む。
さて、LibrettoによってノートPCへ再び目を向けるようになったが、引き続きデスクトップではP6マイクロアーキテクチャを持つPentium IIがPC市場に投入され、Mobile用にはP5の最終形となるTillamook(MMX Pentium)がクロックを伸ばしつつ延命が図られていた。P5とP6では同クロックではP5の方が優れていたが、L2キャッシュメモリの内蔵や高クロック化しやすいことも相まって、総合的にP6の方が上だった。P6をMobileの世界に持ち込もうとパッケージに工夫が施されたMobile Pentium IIも出るには出たが、実装方法に難があり、それほど普及したと言えなかった。P6で致命的だったのは、L2キャッシュメモリが必須でありながら、同一パッケージ内に搭載するのが精一杯で同一ダイに載せることが困難だったことで、プロセスルール縮小を待たねばMobile用チップを作ることは厳しかった。それが解消されるようになったのは事実上、Mobile専用チップとなったDixonである。
Dixonは、デスクトップ向けのDeschutesコアをシュリンクし、それにL2キャッシュをダイレベルで統合したものである。製品名は、以前のMobile Pentium IIと同じ名前となったが、DixonはL2キャッシュメモリを256KB統合しただけあって、消費電力が低い割には高いパフォーマンスを示した。なので、私はDixonコアを搭載したノートPCの登場を待ったが、これといった製品が出てこなかった。そこで海外に目を向けてみると、Toshiba AmericaにDixonコアを搭載したノートPC、Portegeがあったのである。
1990年代も終わりに近くなって、ようやくインターネット接続が普及し、スピードはまだまだだったが、問題なく海外の(といちいち昔は断ってた)Webページを閲覧することも当たり前になっていた。もちろん、個人輸入もかつて1990年代初期とは違ってスムーズに行うことができ、無事に個人輸入でPortegeを手に入れた。なお、このPortegeは後に東京の青梅工場で作られていることがわかり、ここから手に入れられればどんなに楽だろう的な話を関係者としたら、先に言ってくれればみたいな回答をいただきぼやき顔を見せてしまったこともいい思い出である。なお、東芝の日本語(国内)モデルは、細かいことは忘れてしまったが、どうしてTecraやPortegeを出せるメーカが、日本ではこんなダサいものしか作れなく(出せなく)なってしまったのだろうという想いが残っている(Librettoシリーズは別)。
しばらくノートPCから離れていたが、PortegeによってメインPCになってきた。さすがはDixonコアと思っていたのもつかの間、デスクトップPC向けでもL2キャッシュメモリをダイに統合したプロセッサが登場する。ブランドとしてはKatmaiが先にPentium IIIを名乗ったが、事実上、真のPentium IIIとも言うべきCoppermineが登場する。これは、一つのコアでMobileからServerまですべてに対応するプロセッサであり、P6最終形として用意されたものだった。だが、Coppermineの普及に暗雲が漂った。それはプロセッサ製造プロセスの立ち上がりの遅れ以上に、対応チップセットの問題である。Intel社はこの時期、メモリサブシステムを汎用的なSDRAMから、Rambus社のRambusメモリをIntel社の特許も織り交ぜたDirect Rambus DRAMへと転換しようとしていた。これがCoppermineのアキレス腱となっただけでなく、続くPentium 4のアキレス腱ともなったのである。
そして、Portegeを使いながら次に目を奪われたのは、VAIO 505だった…。というところで、次回に続きます。
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