« Wikipedia日本語版での間違い 東急大井町線(駅名の由来)編 | メイン | 「回想の東京急行Ⅱ」における大井町線関連の誤りを検証する »

2010/02/21

コメント

初代雪谷駅
内務省復興局大正14年10月補正の地図によると、雪谷駅は中原街道側から脇道の突き当たの線路の西側に1本のホームがあるだけでおそらく単線の開通でしょう。この脇道は現在の南雪谷2-1-13/15の道路に当たり、踏切で反対側に抜けています。線路の東側には破線で示されたホームがあります。現在は道路の南側が空き地になっており資材置き場になっています。線路は道路からやや北に伸びていますが、崖線からは遠く離れており、道床の工事の痕跡もありませんのでここが初代雪谷であるとおもいます。踏切の北側は今日でも鉄道用地がやや広いような気がします。アルプス電気の裏の道の水道局から中原街道に曲がる位置からもこの場所が推定できます。初代雪谷駅が崖線にあったとは考えられませんが、貴殿の意見をお聞かせ下さい。

木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。取り急ぎ、このコメントのみにお答えいたします。

「アルプス電気の裏の道の水道局から中原街道に曲がる位置からもこの場所が推定できます」←実はこの鍵状に曲がる道路の位置が、大正末期と今では異なるのです。中原街道拡幅前には、今よりもさらに南側で中原街道とつながるようになっていたのですが、西側への拡幅によってこの道路も中原街道に組み込まれてしまい、現在地に直角に曲げて中原街道に接続するように変更になりました。また、大正末期の道路パターンは本記事内に紹介したリンク先記事でも記していますが、現在の道路パターンと違います。このあたりを考慮に入れて地図を読み込む必要があり、それを誤読した結果が関田氏の説というわけです。

追記です。

国立公文書館で確認した昭和3年5月16日付「停留場ヲ停車場並ニ位置変更認可申請」によれば、国分寺線との分岐点とするため中心哩程約7鎖移動(大森起点3哩70鎖50節から3哩77鎖35節)とあり、これからも7チェーン=140メートルほど五反田寄り(大森起点からの距離程なので今日に言う蒲田側からの距離になる)に初代雪ヶ谷駅が移動することが確認できます。

この文書と各種地図資料から読み込めば、関田説の誤りが立証できるでしょう。

XWIN II様
雪谷駅
情報有り難う御座います。確かに中原街道の西側が削られています。地図に出ている同街道を横断する踏切を小型電車が走っていたことを思い出しました。

訂正記事を拝見させていただいて、一々納得してしまいました。
駅の名前が違うのは、致命的ですよね。

大体、あの後ろに「旗ヶ岡駅の写真がない」って…………ちょっと調べれば、私のような素人でも、あるのがわかんのになぁと思いましたよ。

回想の東京急行。
私や友人たちは、その写真を懐かしんで読む本、という位置づけにしております。
特に中原街道を踏切で横切っていく大井町線の姿。
それは、私や友人たちの、はるかな郷愁をかきたてる、写真でありました。

コメントありがとうございます。
今朝ほど、大井町線部分をアップしましたが、池上線と比べて誤りが少なかったです。これは著者の知見(東急関係者)に加え、池上電鉄の歴史が正しく継承されていないことが理由なのかな、と思ったり。さらに蛇足的には私が池上電鉄の研究をここのところ取り組んでいるので詳しくなってしまったこともあるか…。

「地図に出ている同街道を横断する踏切を小型電車が走っていたことを思い出しました」←公文書をあたっているうちに、電鉄会社にとって府道(中原街道)を横断させるだけで当局の許可が必要になるという「一手間」が加わり、なかなか手続きが大変なことを知りました。横断している、という写真が残っていれば…と思いますが、当時は高価な写真でわざわざおさめる被写体でなかったのかな、と。

「私や友人たちは、その写真を懐かしんで読む本、という位置づけにしております」←おっしゃるとおりですね。私的には、公的機関(区役所等)が積極的に古写真を収集して権利関係を解消して出版してほしいな、と。

「区役所等が積極的に古写真を収集して」
はい。同感です。でもって、品川区は、これにチャレンジはしてくれたんですよ。
品川区のホームページにある、「しながわWeb写真館」では、古写真をお持ちの方は、送ってくださいと呼びかけておりました。
で、そこで昭和35年当時の、中原街道を踏切で横切る大井町線の姿、見ることができました。嬉しかったです。

ただ、あの当時、「高価な写真でわざわざおさめる被写体でなかった」とおっしゃられるとおり、写真は、「記念」として使われるものであり、「趣味」で電車の写真を撮られていた方は、ごくわずかだったのではないかと。
何せ、私が小学校時代、白黒の焼き増しが1枚60円。(カラー写真は200円)
物価関係を考えると、今でいえば300円ぐらい?現像も高くて、カメラというのは、高等な趣味でありましたねぇ

我が友人のお父様が、池上線、旗ヶ岡駅の踏切番という、大変旗ヶ岡に密着しておられながら、カメラそのものを購入したのが昭和30年で、もうそのときは旗ヶ岡駅は存在していなかったという。大変残念でありました。お父様も故人でいらっしゃり、お話しも今は聞けませんし。

XWIN II 様
初代雪谷駅
大正14年の内務省の地図の中の中原街道と調布町役場北側の道との交差点をA、御嶽山駅の踏切をBとして、AからB迄の距離を三角形の底辺として同地図の駅の位置を測定してみましたがお説のとおりでした。余談ですが、ちなみに小生は迫撃砲大隊に入隊し標定点と観測所と目標と砲を結ぶ三角形で射距離を測定する演習を行いましたのでこれを思い出して計算してみました。耕地整理や曲線の変更に影響されていない点としてAとBを選んでみました。暇人の余興だと思ってお読み下さい。ただし市販の地図は道しるべ程度で全く当てになりません。

コメントありがとうございます。

「品川区は、これにチャレンジはしてくれたんですよ」←ですね。ただ、それほどカネをかけていないのは明らかで、こういった後生に残すべきものはWeb上だけではダメで、書籍・資料集的な形にしないとやはり残らないものです。もっともっと電子出版が盛んになればいいのでしょうが…。

「余談ですが、ちなみに小生は迫撃砲大隊に入隊し標定点と観測所と目標と砲を結ぶ三角形で射距離を測定する演習を行いましたのでこれを思い出して計算してみました。」←実践(実戦)で三角測量をご体験されていらっしゃれば釈迦に説法ですが、地表面の起伏の程度が山岳地帯のそれよりも圧倒的に低い平地部分においては、地図上の三角測量(的方法)で精度的に十分かと思います(地図では道路の幅員が強調されますし)。
「市販の地図は道しるべ程度で全く当てになりません」←市販地図のそもそもの目的が「道しるべ」のようなものが第一なので仕方がないことです、が、しかし。戦前の地図資料(中でも手書きの線路計画図等)は不正確なものも多く、なかなか原点特定するのも難しいですね。

XWIN II様
コメント有り難う御座います。
貴殿の航空写真上の雪谷駅の説明と全く一致しましたので驚きました。現在のアルプス電気の裏の通りの鉤の手状の所に囚われて石川台3号踏切の所と誤認していたことがわかりました。

XWIN II様
駅のホームの位置を特定する時に、御嶽山駅のように16M級の電車の単車運転を基本とした長さであるために判断を難しくしています。国電から譲渡された車両も反対側に運転台を設けて単車運転できる様に改造されて納車されています。雪が谷大塚への変更に関する昭和16年の雪谷行きのサボーを付けた電車の写真でさえ単車です。無論総括制御ですので2両運転も可能ですが、戦前の写真は全て単車運行のものばかりです。何時から2両あるいは3両運転となったか知りません。多摩川線に至っては4両可能な様に延長されていますが、3両の所で仕切られています。乗客の増加が見込めないのでしょう。

木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。

池上線の電車編成数が2両以上になったのは、確実なことは言えませんが、仰せの通り、写真等を見た感じでは太平洋戦争以降のような印象です。また、駅のホームについてですが、池上~雪ヶ谷間の開通時には、池上駅を除くすべての駅(光明寺駅、末広駅、御嶽山前駅、雪ヶ谷駅)周辺の耕地整理が未実施だったため、耕地整理事業によってホームの位置をずらされている(場合によっては線路も)と思われるような事例が確認できます。
(けっして地図が不正確だという理由だけではないような。)

なので、駅の位置特定作業は慎重な判断が必要なのかな、と思うわけです。

XWIN II様
池上線の駅の位置
情報有り難う御座います。
 公文書で信号機の設置の件が記載されていますが、最初は習志野の鉄道連隊のような単線の仮設線路で路面電車のような信号機もなしでとりあえず日銭を稼ぐ姑息な方法で開業したのだと思います。路線の移動があったような事例があればその一つでもご教示下さい。
 その後も川崎財閥自体が不況で痛手を受けたように聞いておりますので、中途半端な支援しか出来なかったのでしょう。大崎広小路の環状線との交差点の角の所にあった川崎第百銀行を思い出しました。日本橋の高島屋の斜め前に川の字のマークを残した正面口が保存されていると思います。

木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。

「路線の移動があったような事例」←確認を取っていないことをご容赦願いつつ可能性のあるところは、大正14年3,000分の1地図から見ると、「御嶽山前駅の北方100~200メートル先」、「末広駅[久が原駅]の位置。前後含む」あたりをあげることができます。

「日本橋の高島屋の斜め前に川の字のマークを残した正面口が保存」←今度日本橋に出たときにでも探してみます。

XWIN II様
線路の移動に関する情報有り難う御座います。久が原駅付近は新道と旧道が入り交じって複雑になっており田園調布のように整然と区画整理がなされていませんね。

木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。

久が原駅付近は、昭和7年の東京市合併直前において、池上町と東調布町との境界に近く位置していたので、耕地整理上、うまく道路をかみ合わせられなかった結果です。
また、道々橋から南西方向に続くメイン道路を残したことも影響しているかと。

XWIN II様
久が原の住宅地
情報ありがとうございます。池上線の西側の久が原の南斜面を有する舌状台地の所は上手に宅地造成されており、高級住宅が建ち並んでいます。耐震問題で問題を起こしたヒユーザーの社長も以前ここに住んでいました。個人的にはこの付近の雰囲気は好きです。

木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。

久が原の耕地整理(池上西部耕地整理組合)は、方形の大きめな区画になっていますが、これが災いし、戦前でも家を建てるには広すぎたため、大半の区画がさらに細い道で区画され直されています。この細い道路が尺貫法で言う2間(約3.6m)程しかなく、戦後の建築基準法で4mの幅員を求められたため、いわゆるセットバックをしなければならなくなっています。

XWIN II様
久が原の住宅地
貴重なコメント有り難う御座います。購買力を予測することが如何に困難であるかを実感しました。最近は賃貸アパートでも規模の設定を誤るとテナントが入らず往生している所を散見します。売れ筋を掴んだ所は結構入居者を探すことが出来ていますので不況のせいだけにすることはどうかと思います。ただグローバルには不況は深刻で駅前の優良な賃貸マンションでもがら空きなところが増えているような気がします。

木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。

池上西部耕地整理組合、特に大字久ヶ原地域の区画が大きいのは「推測」ですが、減歩率を抑えるためかと予想します。道路の幅員は広い(4間程度)ですが、区画を割らざるを得なくなったのは、ご指摘の通り「売る」「貸す」ためでしょう。

XWIN II様
コメント有り難う御座います。道路幅の件ですが、本件に関係ありませんが、東邦医大通りや池上通りに沿って普通の乗用車でも入れないような極端に狭い道路が多数残っていますが、昔の名残でしょうか。もっとも東邦医大通りでさえボトルネックになっている所が依然としてあります。

木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。

「東邦医大通りや池上通りに沿って普通の乗用車でも入れないような極端に狭い道路が多数残っていますが、昔の名残でしょうか。」←これは耕地整理の際に確保された水路の跡です。耕地整理は住宅地、としてでなく無論、本来は「耕地」のために行われるべきものですので、当然、耕地として利用する想定だったところでは幅1~2間ほどの水路が確保されている例も少なくありません。久が原の幅員4メートル未満の道路とは、作られた経緯が異なりますね。

XWIN II様
コメント有り難う御座います。確かに東邦医大通りが鬼足袋通りと呼ばれていたころ、まだ田んぼが残って居りました。沢田通りとの交差点の近くに眼科医のご子息と同級で遊びに行ったことがありますが、昭和15/6年頃でさえ田んぼが残って居りました。自宅のすぐ側に暗渠化された水路があり狭い路地となっていることを見落としていました。扱いは自治体の管轄になるようです。

コメントの確認

コメントのプレビュー

プレビュー中です。コメントはまだ投稿されていません。

処理中...
コメントを投稿できませんでした。エラー:
コメントを投稿しました。コメントは記事の投稿者が承認してから表示されます。 さらにコメントを投稿する

入力された文字と数字は画像と一致していません。再度入力してください。

最後に、下の画像の中に見える文字と数字を入力してください。これはプログラムを使ってコメントを自動的に投稿するのを防ぐために行われています。

画像を読み取れない場合は 別の画像を表示してください。

処理中...

コメントを投稿

コメントは記事の投稿者が承認してから表示されます。

アカウント情報

(名前とメールアドレスは必須です。メールアドレスは公開されません。)

2024年1 月

  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31