「回想の東京急行Ⅱ」(大正出版。著者:荻原二郎・宮田道一・関田克孝)は前のⅠと共に、東急電鉄公式資料に次ぐ素晴らしい資料本である。様々な東急電鉄に関する本はあるが、歴史に関してはこの本がバイブル的なものであることに疑いはない。だが、おそらく鉄道関係(電車や施設、設備等のハードウェアとか)の記述は優れているのかもしれないが(残念ながら私はこの方面は門外漢)、歴史記述に関する部分には錯誤と思われる誤りが意外に多い。
大した本でなければ、誤りばかりでも気にならない(ゴミなので)が、優れた本であればどうしても気になってしまう。そこで、私のレベルで気付いた点を列挙し、自分の備忘録とするほかに公開することで参考としていただければ幸いである。では、「回想の東京急行Ⅱ」14ページから検討していこう。
P24「もともとこの一帯は、立会川に沿った郊外の三業地、商業地として栄えていたのに、停車場設置が遅れたのは不思議であるが、電鉄側が谷底駅の設置を嫌ったためであろう。」
西小山駅の説明。谷底駅の設置を嫌ったかどうかは別にして、西小山三業地の許可は西小山駅設置以降のこと(正確に言えば三業地誘致と駅設置誘致は並行して進められていた)なので、正確な表現ではない。また、駅南側の現在で言えば品川区側はまだ耕地整理直後であって、駅北側の現在で言えば目黒区側のみが発展していたのであり、著者の認識が誤っている可能性を指摘できる。
P26「西小山駅からの下り電車が架道橋を越えると、上り勾配区間に入り、両サイドに戦前からの洋風住宅を見ながら緩いカーブの洗足駅に到達する。」
洗足駅の説明。まだ地下化する前の記述なのだが、当時あった架道橋を越えた辺りに戦前からの洋風住宅が見えるとあるが、これが誤り。駅に近い当該部分は太平洋戦争中の空襲で焼けてしまい、この場所から「戦前からの洋風住宅」が見える余地はない(現在は地下化により完全に見えない)。よって著者のイメージ(回想)なのだろうが、誤りである。
P53「矢口村耕地整理組合と蒲田町、池上電鉄と区画整理上の決着が遅れていたためで、相当な部分が震災後に工事着手、または修正工事が施工された。」
武蔵新田駅の説明。細かいが、誤りが少ないので仕方がない。正しくは矢口耕地整理組合(「矢口村」ではない)。
P61「道塚駅は典型的な相対式ホームの駅で、あまりにも蒲田駅に近いこともあって、新開地とはいえ、ふだんは乗降客はきわめて少なかった。」
これだけ読めば間違いなどない、と思うだろう。だが、文の前後関係から道塚駅とある部分は本門寺道駅とするのが正しい。理由は、この文の直後に池上・目蒲が合併し、駅名も道塚に変わるというものが続くからである。
以上である。今回も前回同様に、本書は「回想の~」と銘打っているので「ノ」や「ヶ」については昭和40年(1965年)までを回想しており、あえてそのように表記しているならば誤りではない、という立場をより前向きに受け取り、それらを誤りには含めていない。そのことを考慮に入れても、池上線と比べれば大井町線や目蒲線(目黒線の部分+東急多摩川線)の誤りが少ないことがわかる。これは、東急電鉄系の社史の誤りが少なく、孫引きされるなどによる誤りの再生産がされにくいことが要因だろう。けっして、本書の著者だけの問題ではないと考える。
といったところで、今回はここまで。しばらく地域歴史研究関連を続けたので、次回は別方面の記事を考えている。
XWIN II様
西小山から洗足へ
ご説のとおりです。戦災に遭う前からでも右手は低地にある和式あるいは和洋折衷の住宅で所謂洋館ではありません。左側にも大部分は田園都市の外にあり、洗足会館のガードの先にも説明されているような洋館が並んでいる光景は無かったと思います。多分に筆者の思い込みのような気がします。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/02/23 20:08