さて、前回の最後で「本件に関して私の邪推を披瀝する予定」としたように、今回で「目で見る品川区の100年」の73ページにある3枚の写真のうち1番目の話題を完結させるつもりでスタートする。
疑問について、これまで地図資料等を確認してきたが、地元の事情に詳しい読者の方から提供いただいた写真資料を披瀝しよう。
もう1枚。
これらは、旗の台南町会のれきし「みなみのあゆみ 第2版 抜粋版」に掲載されているもので、絵解きには「池上線開通式典(昭和2年8月28日)」とある。つまり、「目で見る品川区の100年」は地元町会のこの資料を参考にしたと思われ、地元がこういうのだから確かだろうとしてあの73ページの写真を掲載したという流れだろう。
しかし、私はこれは「池上線開通式典(昭和2年8月28日)」ではなく、「池上線踏切開通式典(昭和4年以降かつ昭和8年以前)」と見る。こう考えるようになったのは、開通式典といっておきながら駅や鉄道(電車)がまったく見えないこと。スナップ写真など安易に撮影する時代ではなかった頃に、わざわざ踏切を渡るところを撮影したとすれば、これを渡ることに意味があったはずで、開通は開通でも鉄道ではなく踏切道だったと解すれば得心できる。そして、式典会場が踏切の北西高台(現在の旗の台文化センターあたり)で行われたことから(上2枚の写真と他地図・写真資料から推定)、旗ヶ岡駅、そして距離的には近い長原駅(こちらは荏原郡馬込村だったので近い遠いの問題ではないが)のいずれでもない場所で池上線開通式典が行われるというのも不自然だ。踏切であれば、すぐそばなので納得だろう。
そして、この式典は東洗足誠交会が開催していることも写真からわかる(1枚目の写真)。当時、このあたりの町会区域は以下のようになっていた。
ご覧のとおり、旗ヶ岡駅付近は東洗足誠交会の区域にあらず、目黒蒲田電鉄の東洗足駅が区域中にあるが、ここでないこともまた自明。そして問題の踏切道は見事に区域の中に入っている(上図では切れてしまっているが、南側も東洗足誠交会の区域)。これらのことから、「目で見る品川区の100年」さらには地元町会の歴史誌がいう「池上線開通式典(昭和2年8月28日)」の写真は、実は「池上線踏切開通式典(昭和4年以降かつ昭和8年以前)」ではないかとなるのである。(コメント欄でも読者の方が書かれておられるが、この式典の写真を見ると、8月28日とは思えない冬の装束だということも判断指標になるだろう。)
「目で見る品川区の100年」には、既に73ページ2枚目の写真が目黒蒲田電鉄開通式典であるものの、品川区域でない写真だということ(次回以降でふれる予定)、70ページの池上電鉄の目黒川橋梁とされる写真が池上電鉄ではなく、まったく別の目黒蒲田電鉄の目黒川橋梁であることから、必ずしも記載が正しいとは限らないという事象の積み重ねから、こう考えるようになったが、よもやこんな結論を導出することになるとは思わなかった。結論としては、踏切と地図が異なるこの矛盾は、写真、地図いずれも正しく、誤っているのは写真が昭和2年(1927年)8月28日としたことにある。では、どのような流れで、この踏切道が地元に喜ばれる存在となったのか。私は次のように考える。
最初は大正10年(1921年)の1万分の1地形図から。この地図では、中原街道より南側、立会川流域から西側の一帯で耕地整理(今に言う区画整理と同等)が実施され、従来までの狭隘で曲がりくねった道路が、それなりの幅員を持つ直線状の道路になったことが確認できる。この道路パターンは、現在まで続く基本となっていることは、現代の地図と見比べれば確かめられる。問題の踏切が設置される道路は、耕地整理時点では現在と同様に直線状となっている。
続いて、昭和4年(1929年)の1万分の1地形図から。昭和2年(1927年)、池上電気鉄道線と目黒蒲田電鉄大井線(大井町線)が相次いで開通するが、建設工事はその前年(1926年)から行われていた。池上電気鉄道線は、長原駅方面からの急勾配を避けるため、土地の切下げ工事を施工し、当該区間は掘割りとなった。ところが、既存の道路と交叉するうちの一つが、どうしても跨線橋を作るには高さが足りず、踏切にするにしても逆に道路の方が高いので、道路を谷底のようにしなければならないという問題が発生した。
これは、現在の東急池上線石川台駅~洗足池駅間だが、ご覧のように道路が線路で分断されてしまっており、ここに踏切道を設けようにも道路がやや高い位置にあるため難しく、跨線橋にしたら電車とぶつかってしまうので、アーチ状のものにするか、もう少し高い位置まで進んで跨線橋を設置するとなる。この場所よりも、問題の踏切道はさらに道路位置が高かったため、この写真の場所よりも施工が難しい。よって、暫定的に道路をコの字状に曲げ、跨線橋を作ることができる一定の高さまで上り下りするという、歩行者の都合を無視した理不尽な形としたのである。
しかし、既存の道路を鉄道の都合でつぶすというのは好ましいことではなく、地元ではコの字状の上り下りを解消したいと考えていたに違いない。おそらく、当局に陳情等を繰り返した結果、ようやく──
線路の位置(高さ)を変えるのではなく、道路の高さを隣接する土地よりも下に切下げる土木工事を施工し、ようやく完成したことで「開通」記念式典が挙行された。地元にとっては記念式典を行うほどにありがたいものであることは、当初は勾配はあったが直線の道路で通行に支障がないものが、鉄道の開通で不便になり、それを数年がかりで解消できたという点からあっても不思議はないと思う。
昭和11年(1936年)の航空写真を見ると、写真掲載の踏切周辺は更地のままで、現在の荏原五中方向に坂を上っていく道路も隣接する土地との高低差がある、つまり切下げられた道路であるので、この踏切を設置するための土木工事は踏切道整備と一体であったことがわかる。このような土木工事を行う(行った)関係で、このあたりが更地のままだったのではないかと考えるのだ。
そして、この踏切道「開通」記念が、時代と共に何の「開通」だったのかが忘れ去られ、いつの間にやら池上線「開通」記念になった。それが地元の記念誌になり、さらには「目で見る品川区の100年」に掲載される流れとなった。誤りの連鎖がここまで続いた、と見るのである。
といったところで、今回はここまで。続きはこちら。
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