「続・池上線開通式典の写真を分析する─「目で見る品川区の100年」より─」
「池上線開通式典の写真を分析する─「目で見る品川区の100年」より─」
当初は、「目で見る品川区の100年」の73ページにある3枚の写真について、それぞれ疑義を呈していこうと思ったのだが、1枚目の写真だけでこれだけ続くとは思ってもみなかった。私は、
この写真の場所を
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この場所ではないかと推測し、だとすれば、
昭和4年(1929年)の1万分の1地形図と違い(踏切どころか線路を渡る道路すらなく、逆コの字状の跨線橋がある)、この理由はいかなるものであろうかと疑義を呈して終わる(2枚目の写真の疑義に進む)予定だった。だが、コメント欄で地元の事情にお詳しい方々からご指摘をいただくなどあって、そう簡単に終わらせるわけにもいくまい(苦笑)となって、今回は私がいかなる理由であの場所ではないかと考えるに至った資料群をご紹介しよう。
まずは、昭和11年(1936年)の旗ヶ岡駅、東洗足駅が確認できる航空写真。これに若干の説明を加えて、
これをベースに説明しよう。私は、旗ヶ岡駅~長原駅間に線路と直交する踏切は「写真掲載の踏切」とした所しかない、としたが、もう一つ旗ヶ岡駅~長原駅間ではないが、旗ヶ岡駅近くにある「読者の方のご指摘される踏切」(ATOKに敬語の誤りだと指摘されたが気にしない)が該当する。だが、ここではないと私が外した理由は、
- 当該場所はほとんど地形的に起伏がなく、盛土あるいは掘割等を行う必要性がほとんどない。
- 当該場所は線路と道路は直交するものの、南側道路はすぐに鋭角に曲がっており、北側道路は線路用地の幅程度進むとすぐに二股に分かれるので、写真のように直線道路が続くようにはならない。
の二点で、他に道路と線路が直交する場所がないため、昭和4年(1929年)の1万分の1地形図の記載がおかしいのではないかとしたのである。また、旗ヶ岡駅すぐの踏切は、地図・写真のいずれからも確認できるように踏切を挟んで真っ直ぐではない。
そして見にくいが、さらに古い昭和8年(1933年)の旗ヶ岡駅周辺の航空写真。
そして、昭和4年(1929年)の1万分の1地形図。
そして、大正10年(1921年)の1万分の1地形図。
そして、昭和10年(1935年)前後の東京市荏原区の地図より。
そして、昭和4年(1929年)の東京府荏原郡荏原町の地図より。
この手の資料で注意しなければならないのは「鵜呑み」しないことに尽きる。さらに、原資料の存在というか、何か別の資料を参考にしているものが意外に多いということである。例えば、鉄道ファンが語る歴史は、鉄道会社の社史やファン向けの書籍、国土交通省(運輸省、鉄道省等々)などを絶対視する傾向が高く、誤りの連鎖を生んでいることは当blogでも指摘しているとおりだが、地図資料もそのような傾向が強い。現地を確認せずに、別資料から採る方法は一概に悪いと決めつけられないのだが、作者が異なる地図であっても、同じ間違いが記載されているものを見るにつけ、考えさせられることも多い。なので、地図資料の最後に示した昭和4年(1929年)の東京府荏原郡荏原町の地図は、まったく同じ年の1万分の1地形図と同様の逆コの字表現が見られることも、本当にそうだったのか、それともどちらかが影響を受けたのか、と思うわけである。
次回は、本件に関して私の邪推を披瀝する予定としつつ、今回はここまで。
旗ヶ岡会館が記載されているというのが、この昭和10年の地図なのですね。
初めて見ました。すばらしいです。四百百荘の構造物なんかも記載されていて……
ワンダフルです!
さらに、昭和10年の地図も見やすくていいですね。洗足幼稚園の敷地が広いですねぇ
「幻の跨線橋」については、私もずっとあるのかと半信半疑だったのですが。
私としては、あのどんどん橋の写真を見て、ものすごい簡素な間に合わせの橋だけど、当初何らかの都合で、線路に直線道路的な踏切がつくれず、やむを得ず、すぐ脇に、それこそ木の橋をつくったのではないかという、推測の気持ちを改めて持ちました。
写真において、どんどん橋の向こう側に踏切が見えない、ということも一つ。
父の言っていた、「最初は木の橋、すぐに取り壊されて……」というこの部分だけ、合っているのかもしれません。
それと、私の新たなる疑問は。あの写真は、8月28日の、池上電気鉄道が旗ヶ岡駅を通った、その日ではないかもしれない。ということです。
踏切で、警護しているように見える、2~3人の方たち。私は池上電気鉄道の職員かと思ったんですよね。
同じような帽子かぶっているし、腕章しているし、制服みたいだし。
でも、木造院電車両様からは、これらの方々は、在郷軍人と教えていただきました。
なるほど!そうだったのかと思うと同時に、この人たちが、コートを着ているというのが物すごい違和感。8月28日ですよ? 夏ですよ?
もし、式典が8月28に当日ではなかったとしても、日にち的にそんなにずらすことはないと思うのです。
でも、この渡り初めにしても、参加者全員、格好は「冬」
いかに今みたいな猛暑はないとはいえ、昔だって夏は暑かったはず。子供まで全員長袖。不思議でたまりません。この写真だけなら、開通の渡り初めとは思わなかったかもしれませんね。
場所については、私も等高の関係は、思います。ただ、後ろの高い煙突は、昭和大学の煙突であろうと思います。風呂屋の煙突にしては、細いし、高いので。
昭和大学に細い煙突があることは、品川区の100年、昭和10年の昭和医大全景でわかります。
投稿情報: りっこ | 2011/06/30 06:34
であらためて原本を見直し、拡大してみましたが、左側に見える丘の法面に見える関東ローム層と人と比較した高さから、この上に旗の台保育園がある所である可能性が高いと思いました。撮影点は手前の西側の丘の上から下に向けて撮影されたものですので三間通り迄はまっすぐ写らない可能性があり、煙突はやはり清水湯でしょう。
開通式と言う概念に囚われ過ぎたのかもしれません。安全祈願の渡り初めならば神官が先頭になって渡るのが通常ではないでしょうか。
大胆な推理ですが旗台小学校の起工式か開校式のような気がします。生徒の安全のために警報機を取り付けたのかもしれません。
五反田方面に向かう電車は崖に遮られて電車に気が付かない恐れがあるからです。なぜ始めに立体交差にしたのかの推理としては、人身事故があったか通学路であったかで、遮断機もまた自動信号化されないと設置できない警報機が付けられないので財政的な理由として臨時措置として立体交差にしたのかもしれません。
近所に居乍ら用が無いので滅多に渡ったことがないので確実なことは申し上げられませんが、東洗足の町会の学区が旗台小学校であれば通学路の可能性がありますが、たしか昭和8年ぐらいに着工した様に憶えています。 第二延山で進学を目指していたその地区の親は強制転校で大恐慌を来したのを憶えています.
第一回か二回の卒業生ならこの写真を憶えているかも知れませんが、関係した役員は残念乍らお亡くなりになったことでしょう。
写真の裏に克明に記録している人はあまり無く、残念乍ら葬式の後や引越の時に燃える塵で処分されるのが大半です。昭和2年から大幅にずれますがこの推論に対するコメントを御待ちしています。ながながとあちこち引っ張り回して申し訳ありませんでした。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2011/06/30 19:44
こういう話は結論に至るまでの過程(あれこれ検討すること)が面白いので、興味深いご見解はこちらも刺激を受けます。既に私の得た結論は記事にしましたが、「旗台小学校の起工式か開校式」というのもありかもしれません(子供も多いですので)。
まず、旗台尋常小学校は昭和9年6月開校とのことですから、昭和8年前後に工事に着工していたはずですので、ご記憶のとおりかと。地図資料等から、コの字跨線橋がなくなったのは昭和4年後半~昭和8年(あるいは昭和9年前半あたり)頃と推量できるので、旗台小学校の誕生に合わせて踏切化された可能性はあり、と思います。
まぁ、私自身、この地域が地元でもなければ居住したこともなく、単に街歩き(地域歴史研究)等で見聞しているだけですので、体験されている方々にはとてもおよびません。まったく見当違いの可能性もあって、なかなか書きにくい時もありますが、今後ともご意見等を頂戴できればと。
投稿情報: XWIN II | 2011/06/30 22:02
ご指摘の通りこの種の催事に子供が大勢参加することはあまりありませんのでこの推論に達した大きな要因の一つです。場所的には法面の地層から旗の台保育園の所に間違いないという結論に達した大きな要因です。近所に居ても全く疎い場所という所があり、小学生一年の時に第二延山から分かれたので友人も居ませんでしたので交流がまったくありませんでした。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2011/06/30 23:07
追伸
撮影時期ですが、家屋の密集の度合いからも昭和8年頃と推定しました。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2011/06/30 23:48
池上電鉄の雪谷から先の8月28日の開業は桐が谷迄でしかも単線であり、五反田迄つながったのは翌年ですのであの踏み切りが8月28日である可能性は薄いと思います。また昭和8年頃となりますと中原街道も三間道路もバスや円タクや荷車が狭い道路にひしめきあって私なぞ自転車で遊びに行っても危険を感じたのを憶えていますので、通学用にあの脇道を利用したのも分かるような気がします。交通量の増大に応じた道路の拡張工事が用地買収がネックになって遅れたのは今と変わりません。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2011/07/01 09:40
>>第二延山で進学を目指していたその地区の親は強制転校で大恐慌
このタイトルと外れてしまうのですが。
この点が長年の疑問だったので、ぜひ教えていただければと思います。
実は我が家ですが。
父は6年間ずっと赤松小だったのですが。おばが、まさにこの昭和8年ごろ、つまり小学校5年生で、赤松小から、第二延山に、強制転校となっています。
弟が、下の学年に在籍し続けているのに、上級生の姉のみ強制転校、これナゾでした。
祖母に聞いてもはっきりわからず。父いわく。「オレの寄留先と姉の寄留先が違ったからだろう」
……まだこの説明でもわかりません。
「強制転校」って何でしょうか?
投稿情報: りっこ | 2011/07/01 10:57
りっこ様
強制転校
既に説明した通り震災後の城南地区の爆発的な人口の増加に学校施設が対応できず私自身1年生とときは午前と午後の2部授業でそれでも肘がつかえるほど大人数が教室に押し込められていました。これを解決するために旗台小学校のように学校を増設したのですが、教諭の質がどうしても新設校では落ちるのではないかという神話が親の間に広がり、一部の親は事前に割り振りの情報を入手した人は寄留先を変更する手を打ったようですが、議論していると拉致があかないので強制転校と言うことになったのでしょう。転校された方々でもみな立派に成長されました。出世はあくまで本人の努力次第と言うことですか。寄留制度は良く知りませんが子の将来を心配する親心は何時までたっても変わりませんね。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2011/07/01 18:31
>木造院電車両マニアさま
ありがとうございました。
赤松から第二延山
いわば、名門小学校から名門小学校なんですよね。
初めから、第二延山にすりゃいいものを。これもまた、我が家のナゾです。
伯母は91歳になりますが、父よりはよほど頭がしっかりしています。
我が家では、父が両親期待の星だったようですが、今となれば、全く立場は逆転です。
投稿情報: りっこ | 2011/07/01 21:22
桐が谷駅までの単線開通の件は以前のブログで見た記憶がありますが、不確定な情報で申し訳ありません。多分桐が谷駅に関する何れかのブログだったのかも知れません。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2011/07/02 10:33
コの字方の跨線橋ですが、財政的に逼迫していた時に古枕木と古レールの護鏻軌条で済む踏み切りとしないで歩道橋を造ったのには余程の事情があったのでは無いかと思います。児童の通学路としては未だ旗台小学校は無く、強いて言えば第二延山小学校ですが他のルートも考えられますので全く見当がつきませんが、何れにしても地元の強い要望が無ければ費用を掛けて橋を作る理由がありませんが、今となっては古老に聞くしか無いでしょう。私も古老ですが(笑い)。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2011/07/07 10:30