« 続々・池上線開通式典の写真を分析する─「目で見る品川区の100年」より─ | メイン | ゼンリンの電子地図「いつもNAVI」仕様変更で後方互換性断たれる »

2011/06/30

コメント

写真の出典を記しておきます。

旗の台南町会のれきし 「みなみのあゆみ 第2版 抜粋版」
旗の台南町会 平成21年8月

>>よもやこんな結論を導出することになるとは思わなかった。

よろしければ、本当はどういう結論を考えておられたのか、お聞かせいただけたらなぁと思います。

でも、その年月日が違うという結論には、「なるほど!」とポンと一つ手を打ちたくなりました。

また、上記の写真についての不思議に思う点や感想を、もう少し述べさせてください。

・「開通式」と式次第にあるが、「池上電気鉄道」の名前がどこにもない。
・開会の辞、経過報告、会計報告の次に「旗の台○○挨拶」というふうに読める気がする。(例の踏切は、字旗の台)
・その次は、無理やり推測したら「奉賞式、謙辞」??
・壇上に紋付袴の人が2人。そして町会旗が2本。これは東洗足誠交会単独の行事ではなくて、もう一つの町会との合同イベントではないか。
・以前のブログに、崖っぷちと書いたが、実はこの「開通式次第」の貼り紙の後ろに、人の姿を見える。もう一段高いところに、広場がありそう。
・季節は寒い時期としか思えない。8月とは考えにくい。
・背後の家屋。特に向かって左の家屋。昭和初期にしては、物すごくモダンなつくり。
・壇上の人々が皆、正装。町会のちょっとしたイベントよりは格式が高そう。

今回、この1の写真をXWIN Ⅱ様がご提示くださったおかげで、当時のことをいろいろ思ったり、推論したり、調べたりする機会を与えていただきました。大変楽しくて、ワクワクいたしました。
本当にありがとうございました !!



コメントほか、資料も含めどうもありがとうございます。
本記事は時間がなかったため、書きたいことの半分程度しか書けなかったこともあって、加筆するつもりでいました。
なので、頂戴したコメントも踏まえて加筆するつもりでいます。

ざっくりと、コメントに対する回答を以下に記します。

>よろしければ、本当はどういう結論を考えておられたのか、お聞かせいただけたらなぁと思います。
 ↑
あの踏切道の開通は池上線延伸開業と同日だったが、鉄道工事中の間は迂回する逆コの字の木造跨線橋しかなかった。よって、地元の方々にとっては鉄道開業もうれしいが、それに加えて迂回跨線橋(回り道)でなく踏切道(直線)になったのがうれしかった(ので式典が開催された)。
一方、地図の方は1万分の1地形図の作成資料として池上電鉄が鉄道省に提出した文書を参考にした際、この文書にはまだ踏切道が書かれておらず、逆コの字の跨線橋しか載っていなかったので、地図にはそのように描いた。
つまり、地図資料はすべて現地を確認しているわけではないので、写真資料のようなものがあれば修正することもあり得る…という話になるのかな、と考えていた次第です。

>「開通式」と式次第にあるが、「池上電気鉄道」の名前がどこにもない。
 ↑
推定通り、後年踏切道が開通したことを祝したものであれば、池上電鉄とする理由がない。むしろ、池上電鉄によって直線道路が迂回道路にされてしまったことを慮れば、恨まれこそすれありがたがられることはないと思います。

>以前のブログに、崖っぷちと書いたが、実はこの「開通式次第」の貼り紙の後ろに、人の姿を見える。もう一段高いところに、広場がありそう。
 ↑
踏切道北西の高台が会場であれば、わざわざ高台の端に設定するとは思えないので、単に周囲に空き地の余裕があるだけのような印象ではないかな、と。また、写真撮影の際には脚立のようなものに乗っている可能性が高いです。

>季節は寒い時期としか思えない。8月とは考えにくい。
 ↑
これはまったく同意。

>背後の家屋。特に向かって左の家屋。昭和初期にしては、物すごくモダンなつくり。
 ↑
このような(これ以上の)瀟洒な西洋住宅は、洗足田園都市や調布田園都市にも多く見られるもので、世間一般では珍しいですが、同時代的には物珍しいうちには入らないですね。結構写真資料は多く残されていますが、手近なものでは「目で見る大田区の100年」51~52ページの田園調布をご覧いただくと確認できます。

今回の喜びは、初めの1枚の渡り初めの写真だけではわからなかったことが、3枚あわせて、背景がわかってきた、ということではないでしょうか。
私も、平成21年から、お送りした2枚の写真は持っておりましたが、実は渡り初めの写真は今回初めて見たものです。

我が地元の幸運は、ひとえに「戦災で焼けなかったこと」実家も含め、東洗足駅から、旗ヶ岡駅の周辺は、奇跡的に焼け残りました。
貴重な写真といっても、皆紙なので、あの戦災で数多く失われてしまったことでしょう。昭和2年にしろ、8年が正解であったとしても、戦前の写真に変わりなく。残っていたことは大変嬉しいことでした。

私がこれからやりたいことは、このみなみのあゆみ、私の手元にあるのは「抜粋版」なので、完全版の、「みなみのあゆみ 第1版」を、入手することです。
頑張ってみたいと思います。

もう一つ、追記資料が出てきました。

上記、1枚目演台にて、挨拶している人物の名前が、推定されました。
遠藤春三郎氏です。
今でも旗の台、三間通りの入り口にある、稲荷神社を建立した人だそうです。
上記の写真が小さいので、確定はできませんが、顔は非常によく似ており、多分間違いないと思われます。

ちなみに、この神社の建立は、昭和3年11月とされています。
私も、11月なら、日づけ的に合うなぁと。
どんどん橋の写真には、神主さんとおぼしき人も写真に写っていますよね。

なお、旗台小の起工式という推論も、うなずけるところが多々あります。
上記の下の写真ですが、万国旗がはためいているところです。
こういうのは、幼稚園や小学校の運動会などですよね。
大人だけの集まりには、万国旗は、そぐわない気がします。
なので、何かしら、子供にとっても重要な、お祭り的意味を持つ、式典だったんだろうなと思いました。

蛇足ですが。旗台小学校の創立は、昭和9年6月28日。今でもその日が創立記念日です。

りっこ様
稲荷神社は良く知っており、初午の日のお祭りに行ったのを憶えています。私の知っている場所はかねこ理髪店の横だった様に記憶しています。遠藤春三郎氏の名前は存じ上げていませんが東洗足の町会の役員でしたか、プロフィルを教えて下さい。

>木造院電車両マニアさま

申しわけありません。 m(_ _)m
遠藤春三郎氏のことは、全く存じ上げておりません。
これから、実家に戻ったときにでも、少しずつ調べてみたいと思っています。

コメントの確認

コメントのプレビュー

プレビュー中です。コメントはまだ投稿されていません。

処理中...
コメントを投稿できませんでした。エラー:
コメントを投稿しました。コメントは記事の投稿者が承認してから表示されます。 さらにコメントを投稿する

入力された文字と数字は画像と一致していません。再度入力してください。

最後に、下の画像の中に見える文字と数字を入力してください。これはプログラムを使ってコメントを自動的に投稿するのを防ぐために行われています。

画像を読み取れない場合は 別の画像を表示してください。

処理中...

コメントを投稿

コメントは記事の投稿者が承認してから表示されます。

アカウント情報

(名前とメールアドレスは必須です。メールアドレスは公開されません。)

2024年1 月

  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31