今回は予定を変更して(予定なんかあるの?と思われた方、正解です(苦笑))、「誤り目立つ「目で見る品川区の100年」と「目で見る大田区の100年」」のコメント欄にお寄せいただいた以下のコメント
記事ばかりでなく写真の誤りが発見されました。このページの上から二枚目の白黒写真です。「人口急増と交通網の発達」と題したページの橋梁の写真が池上線目黒川の橋の写真とされていますが、これは目蒲線の目黒川に架かる橋梁の写真です。池上線の目黒川に架かる橋梁は川の中に橋脚はありません。ご確認下さい。
を受けての検証記事をおおくりする。まずは、「目で見る品川区の100年」70ページ掲載の写真をもう一度確認してみると、
かなり歪んで見にくいが、橋脚が手前側と奥に二つ見えるほか、確かに川の中(上)にも鉄骨が組まれていることが確認できる(三人並ぶ写真最も左側の人の後ろあたり)。では、川の上に橋脚はあったのかなかったのか。以前の当blog記事「池上電鉄時代の五反田駅近望」でもご紹介した昭和7年(1932年)撮影のこの写真から見てみよう。
目黒川改修工事後ではあるが、現在見ることができる目黒川よりも川深は浅い。左に見えるのは五反田駅で目黒川を渡る橋は大崎橋。もうちょっと右側が見えるとよかったが、注目は写真中央に見える鉄骨の橋脚の右側にある鉄筋コンクリート(RC)造に見える橋脚である。この写真では白っぽく見えるRC造の橋脚は、位置から見て五反田寄りの目黒川端にあり、これが「目で見る品川区の100年」70ページ掲載の写真に写っているかが重要なポイントになるが、さてどう見えるだろうか。そう、まったくRC造の橋梁は見えないのだ。
続いての写真は、戦後間もない時期に撮影された五反田駅上空のもので、池上線の高架等の構造物が長い影を落としていることが確認できる。この影を見ると目黒川の上に橋脚はなく、また橋脚も二本足で鉄骨組上げでないことがわかる。さらに注目は、橋梁上(目黒川上)の線路は二股に分かれつつ、右に曲がっていく様子もわかる。さらにさらに、昭和7年(1932年)の写真でも、戦後まもなくの航空写真でも、橋梁の東側(右側)にあたる目黒川岸は船が接岸できるように低くされている。これらを「目で見る品川区の100年」70ページ掲載の写真と比べれば、いずれもそうはなっておらず、明らかに違う場所だと思われる。
さらに直感で、あれが池上線の橋梁にはとても見えないと感じたのは、線路のある位置が低すぎるからである。五反田駅は、当時東洋一の地上からの高さを誇り、地面からは15メートルほどの差があり、目黒川を渡るあたりはここまで高くないにしても、それでも軽く地上から10メートルはあるはずだ。さすがに現地に行っている時間はないので、手抜きで恐縮だがGoogleストリートで確認してみた。
川の柵はおそらく160cm程度の高さなので、池上線の高さが結構高いところを走っているのがわかるが、これと「目で見る品川区の100年」70ページ掲載の写真を比べてしまうと、
う~~~ん…。低いよなぁ、これ。では、目黒線の目黒川を渡る橋を同じくGoogleストリートで確認すると、
目黒線(元 目蒲線)の橋梁は改良工事でだいぶ変わってしまったけれど、橋梁の高さはあまり変わっていないような…。どちらが近いと問われれば、池上線の方でないことは確かだろう。若干、心残りは古い時代の目蒲線が目黒川を渡る写真を探しきれなかった(時間があれば探す)ところだが、池上線でないという傍証が得られたから、それで十分かと考える。よって、疑いは晴れることなく、誤りであると結論づけるには十分な理由があり、いかに本書の70ページがとんでもない間違いだらけであることを確認しつつ、今回はここまで。
目蒲線の不動前を出て目黒川を渡る鉄橋は先の勾配を緩和するためにかさ上げしたことは確かですのでその写真かもしれません。五反田駅の航空写真ですが、目黒川に浮かぶ艀を見て両側に多数在った接岸用の岸壁を思い出しました。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2011/06/29 11:00
追伸
池上線の橋脚の鉄柱は下でやや末広がりになっています。また技術者の服装ですがかさ上げ工事が何時頃実施されたか知りませんが昭和初期のものとは一寸違うような気がします。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2011/06/29 16:33
目黒駅地下化のため橋を付け替えているようですので、登り勾配を緩和するためにせっかくかさ上げしたものを今度は地下に向かって下り勾配になるとは歴史は目まぐるしく変わるものですね。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2011/06/29 23:22
昨日品川図書館に行くのに大崎広小路から大井町行きバスで新馬場で下車するルートを利用しましたが、大崎広小路は道幅拡張のネックになっている橋脚を撤去して橋の付け替え工事中で、昔の矩形の鋼鉄製の橋脚はすでに撤去され、昭和20年5月24日の空襲で火災にあったガード下も長らく鉄骨で補強されてましたが、更新工事中のようです。終戦直後被災したコンクリートの強度が問題視されたようですが、鉄骨補強で済ませたようで、結構長持ちした者ですね。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2011/07/01 09:50
写真の誤りを指摘した者です。
本件について写真を探したところ、目黒区めぐろ歴史資料館が出版した「写真集 目黒の風景100年」という写真集があり、本書の34ページの上の「目黒川を渡る目蒲線目黒行き 昭和31(1956)年7月21日」と題する写真を参照して下さい。分かり難ければ拡大コピーをして頂くとよいのですが、確かに川の中に橋脚が二本突き立っております。下部はコンクリで上部は鉄骨構造のように見えます。
3両編成の電車の真ん中の車両の後ろに煙突が二本見えますが、五反田にはこのような工場はないのだと考えます。また、一番右の電車の下は土手になっております。池上線は、鉄橋(目黒川)を渡ると山手通りまでコンクリートの高架になっているのです。
従って、私が指摘した写真は、目蒲線のものであると申せましょう。
本書は、目黒区教育委員会が編集したもので、目黒区めぐろ歴史資料館で千円で購入したものです。それにしても、ずいぶん価格が違いますね。
投稿情報: prez | 2011/07/17 00:37