そもそも別の目的で調査しているものから、思いがけず別のものを見つけることはよくあることである。今回もとあるものを調べて関東大震災前年の東京の地図を眺めていると、こんなものを見つけることができた。
場所は、現在でいうと東京都荒川区と東京都葛飾区、東京都足立区の境あたり。大正時代の地図なので、地名などは右から左へと読む。地図(部分)左側から大きく曲がっているのが、荒川であり隅田川。当時はちょうどこのあたりで、川の名前が変わる境目でもあった(ちょうど汐入渡とあるあたり)。注目は地図上から右下方向に走る2本の点線で、これこそが荒川放水路建設地。現在の荒川である。ゼンリンの電子地図で確認すると、
大きい地図・ルート検索 ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )
こんな感じ。ご覧のとおり、今では当たり前に見える河川も江戸期はもちろん、明治時代においても影も形もなかった。とてつもない大工事が行われたことがわかるが、この影響を受けた一つが東武伊勢崎線。大正期の地図で確認できるように、荒川放水路計画地に見事にひっかかり、結果としてだが曲線が解消されたこととなった(却って急曲線は増えたが)。
この荒川放水路計画によって、村落の中心部が完全に失われることになったいくつかの村は近隣村と合併するなど、大きな大きな影響を受けたのはそこに住む人たちだけでなく、東武伊勢崎線のように影響を受けたものも多かった。言うまでもないが、荒川放水路(現 荒川)を渡る鉄道は皆少なからず影響を受け、多額の補償金(移設・工事費等)を得た。この一つに城東電気軌道という会社があり、この補償金で「濡れ手に粟」状態でうまい味を占めたのが池上電気鉄道で「活躍」した、あの高柳氏その人だが、その話はまたいずれ。
荒川放水路は今にして思えば大工事で今日の様に用地買収が困難な状況では実現に半世紀は必要となるでしょう。以前は浅草辺りも冠水したようですので東京の治水に貢献したかと思うと頭が下がります。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2011/06/21 08:51
初めまして。度欲(どよく)おぢさんともうします。
ご指摘の堀切、鐘ヶ淵付近のみならず、その上流側にあたる北千住以北の線形も変更されています。
これは東武鉄道のみならず常磐線にも影響していていることに最近気づきました。
リンクをご覧ください。
よろしく。
昭和の東京写真アルバムを掲載中です。ご覧いただければ幸いです。
http://masanori1919.web.fc2.com/index.htm
投稿情報: 度欲おぢさん | 2012/09/27 21:45
コメントありがとうございます。
荒川放水路は、明治~大正時代の東京周辺における史上最大のプロジェクトですので、本当に様々な視点で物語ることができるでしょうね。リンク先も参考にさせていただきました。
投稿情報: XWIN II | 2012/09/30 08:54