前回(その3)は、当初の奥沢線(いわゆる新奥沢線)の免許申請関係文書を確認し、当初計画が公文書上、どのような形で示されているか(残されているか)を見てきた。公文書(建前)上は、地元の東京府荏原郡調布村の要望を受け、池上電気鉄道が嶺変電所付近から分岐し田園調布駅東口方面までの1マイルの新規線を敷設するため免許申請を行った、という流れであるが、ここにあるような額面だけで物事を判断できないことは、公文書(民間企業がお上へと申請文書を出す実態)がいかにしてつくられているかを考えれば、鵜呑みできるものではないことがわかる。そこで今回は、これら公文書群のウラを読み、真の目的はどのようなところにあったのかを考察していこう。
まず、池上電気鉄道の真の狙いは何か。これを探るため、申請に至るまでの歴史的流れを簡単に掴んでおこう。
- 大正11年(1922年)10月6日 池上駅~蒲田駅間を単線開業。途中駅として、蓮沼駅が開業。
- 大正12年(1923年)5月4日 池上駅~雪ヶ谷駅を単線開業。途中駅として、光明寺駅、末広駅、御嶽山前駅が開業。
- 大正12年(1923年)9月1日 関東大震災。
- 大正14年(1925年)12月30日 高柳淳之助社長辞任。越山太刀三郎社長就任。
- 大正15年(1926年)3月27日 越山社長辞任。中島久万吉社長、後藤国彦専務が就任。川崎財閥系体制へ移行。
- 大正15年(1926年)8月6日 慶大グラウンド前駅を新設。
- 大正15年(1926年)10月20日 資本金を92万5千円から350万円に増資。
- 大正15年(1926年)12月6日 上大崎(大崎広小路)~白金間(白金線)、鉄道敷設免許。
- 昭和2年(1927年)3月10日 「電気鉄道敷設免許申請書」を「起業目論見書」と共に鉄道大臣に申請。
ご覧のとおり、高柳体制では形の上だけの開業を実現したものの、その後は接続先の未決定を盾にまったく延長工事を行う素振りを見せなくなり、年月をいたずらに過ごした中で高柳体制は崩壊した。その混乱を越山体制は立て直すことができず、ついに川崎銀行系資本の支配下に入った。それからは、これまで遅々として進まなくなったことが嘘であるかのように、次々と増資しつつ、高柳・越山体制から引き継いだ免許線の工事を進めていったことがわかる。そういった中で五反田から先、東京市内乗り入れを目指した白金線(ポイントは、既免許線として五反田駅までの延伸権を持っていたにもかかわらず、敢えて大崎広小路駅~五反田駅間で既免許線を打ち切り、打ち切った所から白金線として五反田駅を含めた延長線を免許申請し直した。これにより新規線という扱いではなく既免許線の延長線と位置づけ直したのだ)に加えて、新たに出てきたものが奥沢線(当初は調布線)の免許申請ということになる。
白金線の目的が、当時の各私鉄事業者が目論んでいた東京市内乗り入れ(山手線内側への進出)であることは明白で、池上電気鉄道がそれを目指したのは当然である。それは同じく、後藤国彦氏がかかわる京成電気軌道も同様で、こちらは東京市会における疑獄事件にまで発展したが、結果として京成上野駅まで乗り入れることに成功した。ただ、白金線の欠点は、既に品川駅までの権利は京浜電気鉄道が押さえており、京浜電気鉄道の協力が得られなければ品川乗り入れが実現できないことにあった。
一方、奥沢線(調布線)の目的は何だろう。巷間では雪ヶ谷駅~国分寺駅間という長大な計画だけが独り歩きした感が強く、本来は田園調布駅までの短い路線であることはあまり知られていない。そして、前回にも見たように「形式上」は、
荏原郡調布村の請願 → 池上電気鉄道が要請受託 → 奥沢線(調布線)免許申請
となっているが、果たして池上電気鉄道首脳は、この奥沢線(調布線)をどう考えていたのだろうか。まず確実なのは、池上電気鉄道は高柳・越山体制の消極的事業展開から、川崎財閥系の中島・後藤体制に変わって積極的事業展開を図ったことである。高柳体制は、既免許線のうち最も工事費のかからない「池上~蒲田」間の支線から工事にとりかかり、しかもその線形をより用地買収費がかからない(家屋移転を伴わない)方法に変更した。これにより敷設距離は長くなるが、鉄道工事費よりも用地買収費が安価であったことを物語る証左だろう。(下に示すのは、申請時における蒲田支線の計画図。池上付近の曲線もきついが、蒲田までの線形が今と異なる点も確認できよう。面白いのは、線形が住宅をぎりぎりの線で避けるように配置されていること。そして蓮沼駅の位置だけがほとんど変わらないことである。)
続く、池上駅~雪ヶ谷までの第二期工事もほとんど用地買収が困難と思える場所はなく、中原街道接続口と言える雪ヶ谷駅まで延長したが(これは目黒蒲田電鉄の第一期線が目黒駅~丸子[現 沼部駅]までの開業と同じ理由)、そこから先は目黒蒲田電鉄が目黒駅~蒲田駅間を先行開業したことを理由に、あれこれ屁理屈をつけて延長工事を行わなかった。しかも、本線であるはずの大森駅~池上駅間は、事実上店ざらし状態でまったく進捗しておらず、ついには疑獄事件で高柳社長が辞任したことは既に述べたとおりである。
このような体たらくから、中島・後藤体制は一変する。さすがに大森駅~池上駅間を手を付けはしなかったものの、五反田駅までの延長線を確定し、さらに山手線を越えて白金まで達し、京浜電気鉄道との協力体制で品川方面への乗り入れを計画。都心方向への交通動線確保を図る。そして、もう一方向がこの議論の中心である調布線(奥沢線)で、どちらも輸送量の増加を目指したことに変わりはないが、目黒蒲田電鉄の田園調布駅に接続を目指したところに「この計画の安易さ」が見て取れる。
池上電気鉄道線と目黒蒲田電鉄は、お互い交通需要が重なる領域を持ち、どちらも目黒駅~蒲田駅を接続する計画を同じ時期に持っていた。つまり、両社は食い合う状態にあったと言える。だが、高柳体制のもとでは消極的事業展開だったこともあって、目黒蒲田電鉄は池上電気鉄道の存在はあまりいいものではなかったが、悪性の癌という程には発達していなかった。蒲田駅も大正時代末期までは発展途上であって、ここから池上駅あるいは雪ヶ谷駅までの盲腸線では目黒蒲田電鉄のライバルというのは烏滸がましく、田園都市株式会社の分譲地売り上げ利益をあてにできる(不動産収入だけでなく沿線に乗降客を貼り付ける点からも)ことから、将来性も含めて圧倒的差が見られた。
ところが、中島・後藤体制になって状況が一変し、積極的経営に転じたことで目黒蒲田電鉄との対決姿勢はより強まり、手始めに慶大グラウンド前駅の新設による慶應義塾大学の野球観戦利用客争奪戦から、両社の対立は潜在的なものから生きるか死ぬかという決定的な対立となり尖鋭化が進んだ。そう、まさにこの点こそが調布線(奥沢線)免許申請の真の理由となるのである。
池上電気鉄道の言い分はこうである。池上電気鉄道が目黒蒲田電鉄より前に目黒駅への接続を示し、蒲田支線も武蔵電気鉄道(のちの東京横浜電鉄。改名後から目黒蒲田電鉄の姉妹会社)の計画よりは新しいが、目黒~蒲田間の計画としては唯一のものであった。ところが、目黒蒲田電鉄(の前身、田園都市株式会社)は当初、大井町~調布村という計画だったものを支線という形で目黒~大岡山間として確保し、目黒蒲田電鉄発足時に田園都市株式会社の免許線と武蔵電気鉄道の蒲田支線免許を譲り受けたことで、事実上の目黒~蒲田間を獲得し、池上電気鉄道と同じ起終点にすることで経営を圧迫されている、と。
このことの代償行為として、池上電気鉄道は目黒蒲田電鉄線との接続を求め、その交通結節点となる田園調布駅を狙ったのである。目黒蒲田電鉄沿線は、起終点とも省線との接続ができているだけでなく、田園都市株式会社が分譲した多数の住宅地を後背地として確保していたため、沿線が耕地整理事業の途についたばかりの地区が多い池上電気鉄道沿線とは、格段の人口密度の差があった。よって、安易に乗降客の確保を目指すには、近接する他社線との接続が求められる流れとなる。通常、他社線と接続すれば流入だけでなく流出を覚悟しなければならないが、沿線密度が薄い方が流入超過となるのは自明で、東京市内への乗り入れができていない目黒蒲田電鉄線に比べ、白金線経由で品川方面への乗り入れが見えている池上電気鉄道の方が、特に荏原郡の各町村の人たちにとっては魅力的に見えたのである(荏原郡の郡役所は、それが廃止になるまで品川町にあった。また明治より以前は品川宿に多くの人足を提供するなど、経済的結びつきが品川と強かった)。
こうして調布線(奥沢線)の計画が大正末期中に練られ、年号が昭和に代わった翌年に免許申請となったのである。つまり、本音としては目黒蒲田電鉄沿線利用者を奪い取るために調布線(奥沢線)を計画したが、それでは正当な理由として表に出せないため、荏原郡調布村関係者に計画を伝え、これを大きな免許申請理由としたのである。では、荏原郡調布村が池上電気鉄道の計画にどのような背景から乗ったのか。これについては、次回(その5)にふれていくことにしよう。
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