前回(その1)では、池上電気鉄道奥沢線(いわゆる新奥沢線)についての概要を述べた。その最後で「当Blogを初めてあるいは奥沢線に関連する記事をご覧いただいたことがない方には、巷間言われていることと違うことにお気付きだろう」としたが、定説とされているのは、やはり正史である「東京急行電鉄50年史」に記述のものだろう。本書には「新奥沢線」と記述されており、加えて同時代資料である1万分の1地形図においても「新奥沢線」と表記されているように、決定的とも言えるこの二つの資料によって、後代でも「新奥沢線」という呼称が完全に定着している(あえて言うなら「新奥沢支線」という表記が異なるくらいだろうか)。
なお、本書の前に著された「東京横浜電鉄沿革史」には、被合併先の池上電気鉄道の沿革はふれられているものの「新奥沢線」については本文中はもちろん、末尾の年表にもまったく記載が見られない(もちろん「奥沢線」あるいは「国分寺線」としても同様)。同書の発行は昭和18年(1943年)だが、編集者の記載によれば発行までに時間を要したともあり、本文を読めばだいたい昭和16年(1941年)頃までの記述となっている(統計資料等を除く)ので、概ねこのあたりに脱稿したものと思われる。そうなると「新奥沢線」の記述は、わずか5~6年ほど前の出来事であるにもかかわらず記載されていないという、まったく不自然なものと映るのである。
これはどういうことだろう。単に記載漏れ等ではなく、思うにこれは「意図的」であり、理由としては「ふれたくない」「ふれられたくない」とするのが妥当だと考える。つまり、池上電気鉄道新奥沢線は、戦前までは謂わば「黒歴史」のようなものな扱いで、戦後の50年史編纂の際に、資料集めや当時を知る関係者に話を聞いた結果が「東京急行電鉄50年史」の記述成果ではないかということである。
そして、50年史編纂作業は出版が昭和47年(1972年)であることを考えると、その作業工程は昭和40年(1965年)代前半辺りから始まっているはずで、新奥沢線廃止から30年近くを経過した時期となる。開業時のものとなれば、40年近く経過した時期となり、比較的資料等も残っているように思われるが、途中を池上電気鉄道合併や太平洋戦争、戦後の各種制度大改革という大事件を経ているので、単にそれだけの年数を重ねただけとはわけが違う(現在から40年前というと1970年=昭和45年で、この頃の資料は比較的残っているが、当時と今時とを単純比較はできない)。しかし、新奥沢線開業時に20代だった社員であれば、健在であれば60代くらいの年齢なので話を聞くには問題はないと思われる。要は、聞き手さえしっかりしていれば、当時の状況を聞くことそのものに難は少ないので、歴史記述する上では致命傷とはならない時期であったはずだ(とは言いながら、太平洋戦争の断絶が大きいのは百も承知であるのだが)。
しかし、社史として先行する「東京横浜電鉄沿革史」では、作成当時の時局の上で「交通統制」は当然という考え方であり、池上電気鉄道を合併することは地域交通上の必然であるとの考え方で記述されている。「東京急行電鉄50年史」ではさすがに戦後を経ているのでそこまでの記述とはなっていないが、積極的な経営でないとして池上電気鉄道は早晩消える運命にあるような記述となっている。無論、社史であるので当事者はあくまで東京急行電鉄(前身の目黒蒲田電鉄も)、この視点で書かれていることは当然であるものの、多分に「東京横浜電鉄沿革史」の影響を引きずっているように読めるのである。
よって、池上電気鉄道の記述は「東京横浜電鉄沿革史」を基本として踏襲し、記載されていない奥沢線(新奥沢線)については30~40年前の資料と関係する当事者等の話などを総合して、記述されたと考えるわけである。
では、「東京急行電鉄50年史」で奥沢線(新奥沢線)は、どのように記述されているのか。主に、末尾の年表から確認していこう。
- 昭和2年(1927年)4月20日 田中義一内閣成立。鉄道大臣に小川平吉就任。
- 昭和2年(1927年)6月4日 池上電気鉄道、雪ヶ谷~国分寺間鉄道敷設免許申請。
- 昭和2年(1927年)8月19日 池上電気鉄道、調布大塚駅新設。
- 昭和2年(1927年)10月6日 池上電気鉄道、雪ヶ谷~国分寺間鉄道敷設免許。
- 昭和3年(1928年)3月23日 池上電気鉄道、雪ヶ谷~奥沢間工事施行認可申請。
- 昭和3年(1928年)4月4日 池上電気鉄道、雪ヶ谷~奥沢間工事施行認可。
- 昭和3年(1928年)10月5日 池上電気鉄道、新奥沢線雪ヶ谷~新奥沢間開通。
- 昭和4年(1929年)6月1日 池上電気鉄道、雪ヶ谷駅と調布大塚駅を統合、「雪ヶ谷大塚」と改称。
- 昭和8年(1933年)7月10日 池上電気鉄道をさん下に収める。
- 昭和8年(1933年)11月18日 池上電気鉄道、雪ヶ谷~新奥沢間営業廃止申請。
- 昭和9年(1934年)10月1日 池上電気鉄道を合併。
- 昭和10年(1935年)11月1日 雪ヶ谷大塚~新奥沢間運輸営業廃止。
以上は、「東京急行電鉄50年史」の1181~1187ページのうち、関連する年表記事から抜粋したものだが、これを一瞥して「あれ?」と思う部分が出てくるだろう。一つずつ列挙、解説すると、
昭和4年(1929年)6月1日 池上電気鉄道、雪ヶ谷駅と調布大塚駅を統合、「雪ヶ谷大塚」と改称。
まずはこれだ。定説では、この記事は昭和4年(1929年)ではなく昭和8年(1933年)のこととされているのだが、どういうわけか本書においては昭和4年の項に記載されているのである。もちろん、私の転載誤りではない(以下に本書1183ページの一部抜粋を示す)。
残念ながら、昭和4年という表記が前ページにあるので、昭和4年であることが確認しにくいが、前後の記事から昭和4年であることが確認できる(浜口内閣成立あたりで気付くだろう)。単にこれは錯誤だと思うのだが、並記記事として「御嶽山前」を「御嶽山」としていることからも単純な配置ミスとみなすことができる。続いては、
昭和2年(1927年)6月4日 池上電気鉄道雪ヶ谷~国分寺間鉄道敷設免許申請。
年代は前後するが、これは申請当時は国分寺駅までの延伸は考慮に入っておらず、雪ヶ谷(嶺変電所)付近から田園調布駅付近までの免許申請だった。説明(記述)の一貫性が保てない(計画自体が紆余曲折したため)、正確に記すと逆に煩雑・混乱すると筆者がとらえた(余計なお世話)のかはわからないが、おそらくそういう意味合いでこのように表記したのではないかと考える。そして、最後はこれ。
昭和10年(1935年)11月1日 雪ヶ谷大塚~新奥沢間運輸営業廃止。
確かに年表の記述どおり(昭和4年に雪ヶ谷大塚に改称)であるならば、これ自体に何の問題もない。しかし、廃止申請の記事には「雪ヶ谷」と表記されるなど、表記上のゆらぎが見られる。雪ヶ谷大塚への改称時期は、当Blog記事でも予想したように定説の昭和8年(1933年)どころか昭和10年代末期であって、どんなに早くとも奥沢線(新奥沢線)の廃止よりも後のことである。にもかかわらず、本書の年表ではこのような記述となっており、相当の誤り(錯誤)が混入していることが確認できる。が、しかし、これが他文献などを見ても、定説の根拠であることがわかる。言うまでもなく、自分のことを書いた歴史(書)はそれを研究する上での基本図書であるのは当然であり、このことは今さら確認するまでもないからである。だが、自分のことを書くということは、もちろん例外はあるが、自分に都合の悪いことは書かないものであるし、また、曖昧なものは書きにくいということもあるだろう。よって、当時は「東京急行電鉄50年史」において新奥沢線に対する記述は、錯誤も含めて当時はここまでで精一杯だったということができるのである。
次回(その3)に続く。
小川平吉通称オガヘイの免許バラマキは本当だったのですね。後日疑獄事件に連座しますが、ご子息は近所にお住まいで、戦後在外公館に勤められた後に外務省の高官となられた立派な紳士でした。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/07/08 06:39