今回は、田園都市株式会社(のちに目黒蒲田電鉄と合併し、現在の東急電鉄または東急不動産の前身とされる)が大正9年(1920年)12月20日に「地方鉄道敷設免許申請書」として当局に申請した、目黒駅~大岡山駅の計画図を眺めながらあれこれ語っていこう。
まずは免許申請書から。田園都市株式会社は田園都市計画を遂行するに当たって、まずは計画地までの鉄道計画を荏原電気鉄道株式会社に委ね、軽便鉄道法に基づく特許を申請・取得していた。その後、荏原電気鉄道株式会社を解散し、その特許をすべて田園都市株式会社に移行させるが、地方鉄道法への計画移行も相まって鉄道計画の見直しも並行して進められていた(軽便鉄道法の特許では新宿駅に至るまでの長大な路線だった)。結果、田園都市計画地までの鉄道という当初の目的に沿った形で計画が再編成され、その中で新たに出てきた計画がこの大岡山から目黒への分岐線である。
この計画は、当時は池上電気鉄道の持つ大森~池上~目黒計画とほぼ平行するものであったが、池上電気鉄道は計画の度重なる遅延申請を繰り返していたこともあって、すんなりと許可される。こうして、今日の東急目黒線の骨格ができあがる嚆矢となったのが、この申請書といっても過言ではないのだ。
この申請書には計画図も添付されている。
何を書いてあるか見にくいのはご容赦願いたい。もともと、見にくいだけでなくそれを縮小しているため、大雑把にこのような図だった程度の理解ができればいい程度で載せたに過ぎず、線形等をクリーンアップして書いた図を以下に示す。
方位の北を上にしただけでも、だいぶ見通しはよくなっただろう。わかる方にはわかるように、今日の東急目黒線と東急大井町線の原型であることがわかる。申請路線を緑色で表したが、現在の東急目黒線(その前の東急目蒲線)とは線形が一部異なっている。概ね同じだが、目黒駅への接続方法(山手線と並行する区間がない)、大岡山から目黒方向に向かう路線がやや南寄り(現在は洗足駅手前で曲線が始まるが、計画線ではもう少し先から曲線が始まる)、そして不動前駅近辺では逆に北寄り(図中にある不動寺前停留場は今日の不動前駅より目黒不動尊に近い)などが異なっている。
そして何より、申請時との駅名の違いも面白い。開業までの駅数は同じだが、
不動寺前(申請時)→ 目黒不動前(開業時)→ 不動前(現在)
槍ヶ崎(申請時)→ 小山(開業時)→ 武蔵小山(現在)
碑文谷(申請時)→ 洗足(開業時及び現在)
また、駅名の他に面白いと感ずるのは、この第二期線(目黒~大岡山)によって初めて碑文谷停留場として今日の洗足駅が登場してくるが、千束とあてている漢字は異なるものの千束停留場はもっと南寄り(現在でいうと品川区旗の台六丁目26番近辺)にある。これが田園都市計画地と関連して駅が設けられたのかは何とも言えないが、仮にそうであるならば、田園都市として最初に分譲された洗足住宅地は、計画時には分譲時よりもかなり南寄りにあり、それが第二期線の碑文谷駅を計画した際には、思った以上に用地買収を進めることができなかったのでここに中心駅を用意し、さらに施工時には北寄りになって現在の洗足駅となったのではないかと予想される。つまり、洗足付近は土地価格高騰によって用地買収することが困難になったという裏付けが、この鉄道計画変遷から読み取れるのではないか、ということである。
(なお、この辺りの記載については次回記事「続・田園都市株式会社第二期線(目黒~大岡山)計画図を眺める」で示したように、大岡山駅の位置について先入観から誤った結果を導出してしまっているので、今後改めて検討結果を示す予定である。カッコ内2010年6月27日追記。)
と、計画図を見ながらの話は、今回はここまで。
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