前回(その4)は、調布線(奥沢線の初期計画)が免許申請された背景について、主に池上電気鉄道の視点から検討してみた。今回は、池上電気鉄道の勧誘に乗った荏原郡調布村関係者たちは、いかにしてこの計画を請願書まで用意して後押しすることとなったのか、という点について検討してみよう。まず、荏原郡調布村の歴史を簡単に振り返ってみる。
- 明治22年(1889年)5月1日、町村制施行により、従来の嶺村、下沼部村、上沼部村、鵜ノ木村を一部飛び地を除いて統合し、荏原郡調布村が成立。各村々は調布村の大字となる。
- 明治45年(1912年)4月1日、「東京府神奈川県境界変更に関する法律」により、概ね多摩川の中心線を新たに東京府と神奈川県の府県境とし、調布村の一部が神奈川県となる(現在の神奈川県川崎市中原区下沼部など)。一方、神奈川県橘樹郡中原村大字小杉の一部が東京府荏原郡調布村(現在の東京都大田区田園調布四丁目の河川敷付近)となる。
- 大正12年(1923年)3月11日、荏原郡調布村内に初めての鉄道として目黒蒲田電鉄線が開業。村内に調布駅(現 田園調布駅)、多摩川駅、丸子駅(現 沼部駅)が新設される。
- 大正12年(1923年)5月4日、荏原郡調布村内に池上電気鉄道線が開通(池上駅~雪ヶ谷駅)。村内に光明寺駅(現 千鳥町駅付近)、末広駅(現 久が原駅)、御嶽山前駅(現 御嶽山駅)が新設される。
- 大正12年(1923年)8月、田園都市株式会社が多摩川台住宅地(調布田園都市)の分譲を開始する。
- 大正12年(1923年)9月1日、関東大震災。
- 大正12年(1923年)11月1日、目黒蒲田電鉄、丸子駅~蒲田駅間を開通。目黒駅~蒲田駅間全通。開通時ではないが、村内に途中駅として鵜ノ木駅が新設される。
- 大正14年(1925年)8月1日、荏原郡調布村に区制導入。原則、大字単位で1区を構成したが、調布田園都市の区域のみ単独区とし、5区に分割される(第一区=大字上沼部、ただし調布田園都市区域を除く。第二区=調布田園都市区域。第三区=大字下沼部、ただし調布田園都市区域を除く。第四区=大字嶺。第五区=大字鵜ノ木)。
- 大正14年(1925年)11月22日、東京府荏原郡調布尋常高等小学校分教場(現在の田園調布小学校)が開校。
- 大正15年(1926年)1月1日、調布駅を田園調布駅と改名。
- 大正15年(1926年)2月14日、東京横浜電鉄、丸子多摩川駅(現 多摩川駅)~神奈川駅間を開通。丸子多摩川駅より目黒蒲田電鉄線に乗り入れ、目黒駅~神奈川駅直通運転を開始。
- 昭和2年(1927年)3月10日、池上電気鉄道が調布線(御嶽山前駅~雪ヶ谷駅間から田園調布駅)の免許申請。
もっとよく調べたかったのだが、荏原郡調布村の歴史的事項、特に調布村成立からいわゆる目蒲線開通まで(あるいは田園都市株式会社による用地買収)の歴史に特筆すべきものを見つけられず、前半というか後半辺りまでスカスカなのはご容赦願いたい。ただ、明治前期に作成されたフランス式彩色地図(2万分の1)と大正初期の2万分の1地形図を比較すると、ほとんど大きな変化が見られないことから、概ね農村状態がこの間、ずっと維持され続けてきたのではないかと思われる。
(下図は、明治後期における2万分の1地形図に荏原郡調布村の境界と各大字を色分けして示したものである。まだ、多摩川を東京府と神奈川県の境界としていない時のものなので、大字下沼部が現在の川崎市側に張り出しているのが確認できる。そして、この地形図には各村境が描かれているが、池上村大字久ヶ原と調布村大字嶺及び鵜ノ木との境界線が誤っているので正しい形に引き直してある。)
このような純粋農村(江戸期よりの都市近郊農村)だった荏原郡調布村に大きな転機をもたらしたものは、何といっても鉄道開通と田園都市株式会社の進出だろう。ただ、鉄道開通までの歴史は紆余曲折があった。完全な調べはできていないが、おそらく荏原郡調布村内における最初の近代的鉄道計画免許は、明治後期の武蔵電気鉄道による渋谷広尾町から横浜までの計画線で、これが現在の田園調布付近を貫く形となっていた。さらに、蒲田支線の計画が追加された際には、概ね現在の東急池上線をなぞるような形で村内を通過するようになっていた。だが、武蔵電気鉄道の計画はなかなか進まず、第一次世界大戦後の不景気時には会社そのものの存続自体が危ぶまれるような状況に陥り、鉄道建設どころではなくなっていた(下図は、武蔵電気鉄道と池上電気鉄道の計画線を示した。黄緑色が武蔵電気鉄道計画線、紫色が池上電気鉄道計画線)。
そして、大正期になって池上電気鉄道が登場し、当初特許時の計画ではまったく調布村内に路線がかすりもしなかったものが、荏原郡池上村大字久ヶ原に属する計画線が地主の理解を得られずに買収の見込みがまったく立たなくなったことから、これを迂回するような線形で計画変更がなされ、各村の境界線近く(村々から見れば辺境の地)を通過する現在の東急池上線と同じような線形になった。これにより、調布村の大字嶺、大字鵜ノ木に池上電気鉄道線が通過するようになり、駅も開設される計画となったのである(下図の緑色は目黒蒲田電鉄の計画線)。
だが、これも武蔵電気鉄道ほどひどくはなかったが、計画変更から先も数年を要し、ようやく高柳体制になって暫定的な開業ではあったが、第二期線まで の工事を経て蒲田駅~雪ヶ谷駅が開業、途中駅として光明寺駅(現 千鳥町駅付近)、末広駅(現 久が原駅)、御嶽山前駅(現 御嶽山駅)が新設されたのだった。
しかし、もっと大きなインパクトが田園都市株式会社の進出である。もともとの計画は洗足(現在の東京都目黒区洗足、東京都品川区小山、東京都大田区 北千束の各一部)、大岡山(現在の東京都目黒区大岡山及び緑が丘、東京都大田区北千束及び石川町の各一部)地域を主体として計画されていたが、地価暴騰の 影響を受け、調布(現在の東京都大田区田園調布の一部)・玉川(現在の東京都世田谷区玉川田園調布の一部)地域に重点を移した。この方針転換によって、調 布村は大字上沼部の大部分と大字下沼部の一部(一部であるが、大字下沼部は領域が広かったので大字上沼部の全部よりも広い)を田園都市株式会社に買収され ることとなり、この広大な土地に耕地整理を順次実施して多摩川台住宅地(調布田園都市)を建設していったのである。
そして、田園都市計画が具体化する中、鉄道計画も当初は荏原電気鉄道による適当な特許申請(軽便鉄道法による)だったものが、田園都市株式会社自身 による大井町駅~大岡山~旭野(調布村)という具体的な計画に、さらに大岡山から分岐して目黒駅までの支線計画を免許申請。免許後、武蔵電気鉄道の持つ蒲 田支線の免許と共に五島慶太氏が田園都市株式会社に移り、鉄道会社として目黒蒲田電鉄が創業する。そして、一気呵成に目黒駅~洗足駅~大岡山駅~調布駅~ 丸子駅と田園都市株式会社の分譲予定地を貫く鉄道を開通させたのである。計画そのものは武蔵電気鉄道はもちろん、池上電気鉄道よりも遅かった目黒蒲田電鉄 の計画線だったが、結果として一番最初に調布村内で開業する鉄道となったのだった。
このような目黒蒲田電鉄線の開業までの流れは、五島慶太氏の辣腕だけによるものではない。もしそうであるなら、なぜ武蔵電気鉄道時代にそれができなかったかを考えれば、当然別の理由を考えなければならないことは自明である。その別の理由とは、ずばり資金力(資本力)である。目黒蒲田電鉄は田園都市株式会社を母胎として誕生した鉄道建設・運営主体の事業体であり、その事業は田園都市株式会社の意向に大きく左右されるものである。その意向とは、田園都市株式会社の分譲地のための交通手段であり、その資金力はすべて田園都市株式会社の提供するものだった。田園都市株式会社は大渋沢の存在から信用力は高かったはずだが、実際には信用だけではカネは動かせず、その資金力の源泉は分譲地販売による利益であることは言うまでもない(洗足地域分譲前から鉄道建設工事は始まっていたが、そのタイムラグはわずかに3か月。洗足分譲地の販売成績は上々だったことから、この販売益が鉄道建設の力になったことは間違いないだろう。なお、下図は池上電気鉄道が雪ヶ谷駅まで延長開業した時点を表す)。
さて、一方の池上電気鉄道は鉄道営業運転開始という点においては、目黒蒲田電鉄を半年ほど遡る大正11年(1922年)10月6日に蒲田駅~池上駅間、いわゆる蒲田支線を開業したが、その約7か月後の大正12年(1923年)5月4日に池上駅~雪ヶ谷駅間を延長開業した時点では、目黒蒲田電鉄が目黒駅~丸子駅を開業しており、関東大震災を経た同年11月には丸子駅~蒲田駅間が延長開業、目黒駅~蒲田駅間が全通し、社名とした目黒蒲田電鉄としての当初の目的を完遂した。その後、両社とも様々な理由から大正時代中には新規開業はなく(目黒蒲田電鉄姉妹会社の東京横浜電鉄=かつての武蔵電気鉄道が丸子多摩川駅~神奈川駅間を開業しているが)、約3年程度、目黒蒲田電鉄は目黒駅~蒲田駅、池上電気鉄道は蒲田駅~雪ヶ谷駅という状態が続いていた。これを荏原郡調布村という狭い領域で、両鉄道が地域に与えた影響を考えよう。
田園都市株式会社の用地買収に応じた大字上沼部と大字下沼部の多くは、調布田園都市となっており、近隣の状況とは完全に一線を画していた。先行する洗足田園都市の近隣は省線目黒駅に近いことや、碑文谷耕地整理組合による武蔵小山駅~西小山駅近辺の耕地整理事業による工事が関東大震災前にはほぼ終わっていたことから、借地借家経営を積極的に地主が展開して住宅密集地となっていた。だが調布田園都市は、玉川村方面は奥沢駅周辺に辛うじて商店街が形成された以外は、江戸期以来の村落が続くような状態であり、この一帯だけが住宅地のようなものであった。しかも、目黒蒲田電鉄線の調布駅(大正15年より田園調布駅と改名)、多摩川駅(のちに移設して丸子多摩川駅、いくつか改名が続いて現在は多摩川駅に戻る)、丸子駅(現 沼部駅)、鵜ノ木駅(現 鵜の木駅)と4駅が開設され、目黒駅及び蒲田駅と二方面利用することができた。さらに大正15年(1926年)には東京横浜電鉄が田園都市株式会社・目黒蒲田電鉄からの資金提供を受け、丸子多摩川駅~神奈川駅間が開通し、目黒駅までの直通運転を実現していた。そしてその翌年には、渋谷駅までの延伸も見込まれており、ますます目黒蒲田電鉄線沿線は利便性の高い地域と目されていたのである。
ところが、池上電気鉄道線は単線でしかも一方向(蒲田方面)の盲腸線。大正15年(1926年)後半時点で、慶大グラウンド前駅、光明寺駅、末広駅(現 久が原駅)、御嶽山前駅(現 御嶽山駅)と目黒蒲田電鉄沿線と比べて駅の数だけは4駅と同じだが、中身がまったく違っていた。五反田駅までの延長工事は途についたばかり。白金方面への延伸は期待できるが、これも五反田駅までの延伸が行われて以降の話である。これでは、調布村の中で発展バランスが大きく偏り、大字嶺、大字鵜ノ木の発展が大字上沼部及び下沼部と比べ、ますます格差が広がることは必至であった。
なぜ、この格差が問題であるのか。田園都市株式会社によって調布田園都市が展開したのは、かつては村内においてこの地域はまったくの未発展地域であったからだが(だからこそ大規模な用地買収による開発が可能)、鉄道の開通、田園都市の建設、電気・ガス・水道などの普及によって、あっという間に調布村内で最も都市化した地域となり、この結果、調布村内で地域間格差が生じ、人口比から見ても調布田園都市の勢力は村内で大きな位置を占めるようになった。しかもこの時期は国勢調査が始まったばかりの頃で、従来よりも正確に地域人口が数えられるようになったこともあって、大正デモクラシーの空気の中、調布村村政の流れも変わらざるを得ず、よく見られる新興住民と旧来の住民の対立というおそれも見えてきたのである。
実際、調布村政は人口増分の最大数を抱えるに至った調布田園都市を区制導入によって分離(このとき、初めて田園調布という名称が誕生)し、従来の住民は村内自治権の拡充(村内での地位向上)を怖れていた。先にもふれたように調布村は、上沼部村、下沼部村、嶺村、鵜ノ木村の4村合併によって成立し、各村々が新生調布村の大字として原則継承されたが、江戸期からの発展していた地(あくまで相対的に)は嶺村と鵜ノ木村であり、上・下沼部村は嶺や鵜ノ木に比べれば今一つだった。それが田園都市開発によって一気に逆転してしまったのだから、嶺や鵜ノ木の焦りもわかろうというものである。
(例として大正14年(1925年)実施の国勢調査では、調布村第二区(田園調布)だけで152世帯、780人あった。村全体ではまだ1,000世帯に到達しておらず人口も5,000人程度で、田園調布だけでも存在の大きさが伺えよう。しかもまだ分譲中であり、翌年には200世帯超を数えるに至る。そして当時は、まだ男子普通選挙すら実施されておらず(法改正は大正13年(1924年)であるが、最初の法改正後の選挙は昭和に入ってから)、一定の要件を具備した者のみの制限選挙で、こうした点からも田園調布区には人口比以上に村政を左右するだけの勢力を持つと旧住民から警戒されていたのだ。)
以上の格差を解消しようとして出てきたのが、調布村内の鉄道交通ネットワーク充実という考え方である。異なる二社間の接続駅は蒲田駅のみで、これは調布村から見れば大回りでしかない。最も簡単な方法は、調布村視点からすれば、目黒蒲田電鉄線と池上電気鉄道線の接続を調布村内で実現することとなる。目黒蒲田電鉄線においては、田園調布駅、丸子多摩川駅、沼部駅、鵜ノ木駅。池上電気鉄道線においては、慶大グラウンド前駅、光明寺駅、末広駅、御嶽山前駅。これら両線の駅のどことどこを接続するのがよいのか。
これは最も蒲田駅から離れたところ、となる。両線が蒲田駅で接続している以上、両線の乗り換えに最も時間を要するのは必然的に蒲田駅から最も離れたところとなるので、御嶽山前駅と田園調布駅を接続するのがよいとなるが、当時、池上電気鉄道の終点だった雪ヶ谷駅は、荏原郡調布村と境界を接するほどの近くにあったことから、御嶽山前駅~雪ヶ谷駅間の最も田園調布駅との接続に相応しいところ、となった。これが、敷設免許申請書に見える「弊社既営業線参哩六拾壱鎖ヨリ分岐シ東京府荏原郡調布村ニ至ル延長壱哩間」となるのである。前回(その4)で見た池上電気鉄道の思惑と一致する結果となることも、両者にとって都合がいいものだろう。要は、大義名分さえ定まれば、あとは両者とも思惑(本音)どおりに事が運ぶからである。
調布村として全面的にバックアップするのは、請願書に見える「過般来関係地主ト大ニ協調シ時価ノ半値ニテ軌道敷地ヲ提供セシメ極力其衝ニ当リ」とあるように、時価の半額で用地買収に応ずるというところからも明らかだろう。こうして、池上電気鉄道と荏原郡調布村のタイアップから昭和2年(1927年)3月10日に調布線(奥沢線)の免許申請がなされた。ではその後、この免許申請はどのような流れでいわゆる国分寺線へと変質していくのか。次回(その6)は、そこから議論を展開していくことにしよう。
毎回のことながら、すばらしいとしか言いようのない、地誌研究であり、XWINll様の右に出るブログは、「ない!」と私、断定してもいいと思います。
広くあまねく皆さんに読んでいただけたらいいなぁと切望する次第です。
一つだけ、私の勘違いなら恐縮なんですが。
>鵜ノ木駅(現 鵜ノ木駅)
多分、これは鵜ノ木駅(現 鵜の木駅)とお書きになりたかったのだと思いますが、違いますか?
投稿情報: りっこ | 2010/08/15 17:23
本件とは直接関係ありませんが、沼部の現在の川崎市に属する部分の旧玉川の河跡部分が現在でも蛇行する道路で残っています。境界線の決定には一悶着会ったという記述を読んだ記憶があります。かって大洪水があったのでしょう。目蒲線は国分寺崖線に沿ってほぼ古い堤の上を走っているようなものです。平坦で工事が容易であったからでしょう。雪谷から大田区図書館のある沼部へ行くのに蒲田を遠回りしなければならないので交通費もさることながら時間的にも大きなロスです。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/08/18 21:23
コメントありがとうございます。
>多分、これは鵜ノ木駅(現 鵜の木駅)とお書きになりたかったのだと思いますが、違いますか?
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御見込みのとおりでございます。というわけでご指摘いただき、ありがとうございます。既対応済です。
>境界線の決定には一悶着会ったという記述を読んだ記憶があります。
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いつ何時でも境界線変更というのはもめるものですが、現実に即した対応とするのはやむを得ないものかなとは思います。もっとも当事者となればそうも言っていられないとも思いますが。
投稿情報: XWIN II | 2010/08/22 08:12