前回(その2)は、池上電気鉄道奥沢線(いわゆる新奥沢線)についての定説は、いかにして作られたのか。そして基本図書と言うべき「東京急行電鉄50年史」にはどのように記載されているかについて、主に巻末の年表から確認した。今回はこれを受け、奥沢線に関する疑義として最も重要(根源)というべき、鉄道敷設免許申請に関する疑義を呈していこう。
前回、確認したように「東京急行電鉄50年史」においては、昭和2年(1927年)6月4日に「池上電気鉄道雪ヶ谷~国分寺間鉄道敷設免許申請」とある。だが、私が確認した公文書情報では、次のような文書を確認できるのだ(以下、文書の転載は基本的に現在通用する漢字に置き換えてある)。
電気鉄道敷設免許申請書
今般弊社既営業線参哩六拾壱鎖ヨリ分岐シ東京府荏原郡調布村ニ至ル延長壱哩間ニ電気鉄道ヲ敷設シ一般旅客貨物ノ運輸業ヲ営ミ度候間特別ノ御詮議ヲ以テ至急免許相成度関係図書相添此段申請候也
昭和二年三月十日
東京市京橋区出雲町五番地
池上電気鉄道株式会社
社長 男爵 中島久万吉
専務取締役 後藤国彦鉄道大臣 子爵 井上匡四郎 殿
何と、昭和2年(1927年)3月10日が申請日となっている。しかも、雪ヶ谷~国分寺間などではなく、既設線3哩61鎖(3マイル61チェーン)から分岐した場所(当時の嶺変電所付近)から東京府荏原郡調布村(田園調布駅付近)までの1哩(1マイル)の延長線の計画とあるのだ。この文書に付属する「起業目論見書」には、
起業目論見書
一、目的
本会社ハ地方鉄道法ニ準拠シタル鉄道ヲ敷設シ一般旅客貨物ノ運輸業ヲ営ムヲ以テ目的トス一、商号
商号 池上電気鉄道株式会社
主タル事務所ノ設置地 東京市一、鉄道事業ニ要スル資金ノ総額及出資方法
資本金総額 参拾万円也
出資方法 本会社ノ資本ノ増額及借入金一、線路ノ起終点及其ノ経過スヘキ主ナル市町村名
起点 東京府荏原郡調布村
終点 同府同郡同村
線路ノ経過スヘキ市町村名 東京府荏原郡調布村、玉川村一、軌間 参尺六寸
一、動力 電気
電力ハ東京電灯株式会社ヨリ供給ヲ受ク
と確認できるように、一部玉川村を通るが、起終点は調布村内を走る路線として申請されたのだった。この3月10日という申請日については、同日付で東京府知事に対しても、鉄道大臣に申請を行った旨の文書を提出していることからも、この事実は動かしがたいと考えられる。また、鉄道監督局長に対しても、上申書が出され、本申請については格段の配慮を願いたいという表れが看て取れる。
上申書
弊社既免許線中五反田接続線ハ目下工事中ニ有之近ク開通ノ運ト可相成引続キ白金猿町ニ至ル線及京浜電気鉄道株式会社ト共用契約ヲ締結セル同社ノ免許ヲ有スル白金猿町品川間ノ工事ニ着手ノ予定ニ有之候処是ヲ敷設セラレタキ旨申出アリ調布村ノ如キハ別紙写ノ通リ村名誉職及関係地主ノ連署ヲ以テ希望シ来リ候次第ニテ弊社トシテモ目黒蒲田電鉄株式会社及東京横浜電鉄株式会社トノ貨客連絡上ヨリスルモ極メテ適切ナル線ト思料シ直チニ着手致度候ニ付テハ格別ノ御詮議ヲ以テ御免許相仰度奉上申候
昭和二年三月十日
池上電気鉄道株式会社
取締役社長 男爵 中島久万吉
専務取締役 後藤国彦鉄道監督局長 斉藤真澂 殿
ご覧のように、雪ヶ谷駅から五反田方向への延長線工事が進んでおり、近いうちに開業、品川方面への延伸も見込まれることから、これを受け、地元から品川方面への利便性から目黒蒲田電鉄線との接続を要望したいという内容である。その地元の請願書を示すと、
請願書
本村ハ大震災以来都人士並ニ他方面ヨリ移住スルモノ日ヲ逐ッテ多数ヲ来シ現今ニテハ大約数千戸ヲ有スル大村トナレリ曩ニ目蒲並ニ池上両電車ノ布設以来一層ノ来住者設日々増加シ従ッテアラユル関係者モ襲来シ為メニ交通機関ヲ利用セサル可カラス幸ヒニ池上電車線ハ本村大字鵜ノ木字大塚ヘ通シ居ル其間既設シアル返電所中原街道ヲ横切リ大字下沼部ノ要所ヲ貫キ以テ田園調布駅(別紙図面ノ通リ)ニ至ル約七百間ヲ通過セシ時ハ独リ村民ノ喜ヒノミナラス延イテ京浜地方並ニ神奈川県方面ヨリ往来スル人士ノ便益幾何ソヤ吾人等ハ茲ニ見ル処アリ過般来関係地主ト大ニ協調シ時価ノ半値ニテ軌道敷地ヲ提供セシメ極力其衝ニ当リ前記返電所ヨリ田園調布駅ニ達スル支線布設ノ急速ナル事ヲ熱望シ加フルニ近ク完成スル渋谷線モ田園調布駅ニ連絡ス斯クセハ日々池上本門寺ヘ参詣スル善男善女ノ好都合トナリ以前ヨリ数千倍ノ参詣者ヲ求ムルコト必然タリ如上ノ故ヲ以テ吾人等ハ該支線布設ノ大必要ヲ期待シタル所以ニシテ該支線ハ目下ノ一大急務ナルハ論ヲ俟タス其支線完成ノ暁ニ於テハ大ニ土地ノ発達文化ノ進歩ト共ニ貴社ノ恩恵ニ浴シ国家的事業トシテ深甚ノ光栄ヲ思惟シテ忘レサルナリ依テ特別ノ御詮議ヲ以テ一日モ早ク支線布設ノ儀御決定相成度茲ニ連署ヲ以テ請願書提出スル次第也
荏原郡調布村
村長 天明啓三郎
助役 落合甲之助
収入役 鈴木弥太郎
村会議員 久保井良輔
同 天明元太郎
同 原田時太郎
同 大野政助
同 森総吉
同 内田彦太郎
同 野村浅蔵
同 平野午太郎
外関係地主 三十九名連署
というように(変電所の変が「返」になっていたり、敷設の敷が「布」などとなっているのは原文(写しか?)がこのように記載されているため)、調布村名誉職(当時、村長以下いわゆる三役は無報酬であり、名誉職という位置づけであった。とはいえ、なり手が居なかった場合は、村の予算で外部から雇用する方式も選択肢としてあったが、調布村においては名実共に名誉職である)以下、村会議員全員(定数7名)、名前は記されていないが、関連地主39名がおそらく原本には書かれており、村を挙げての請願であることが伺える。
要はこれだけの文書群が揃えば、昭和2年(1927年)3月10日免許申請である事実は動かず、「東京急行電鉄50年史」に書かれる昭和2年(1927年)6月4日申請と食い違っていると思える。ただ、これには後述するように理由があり後でふれるとして、まずは3月10日の一連の申請関連文書から分析してみよう。
まず、最初の申請は、調布村~調布村間で途中玉川村を経由する1マイルの路線であることがわかる。この計画図は、他文献でも紹介されているものであるが、新奥沢線の当初計画とされている図面を以下に示そう。
これからわかるように、御嶽山前駅~雪ヶ谷駅間から分岐(3マイル61チェーン地点というのは、起点を大森駅とし、そこから池上駅~雪ヶ谷駅方向へと数えた距離である。当時、池上駅~蒲田駅間は支線という位置づけだった)し、線形があまりにくねくねしている(これは意図的に大地主の家屋を避けた印象)という不自然さはあるが、終点を田園調布駅東口北側までの区間1マイル(尺貫法だと約700間と請願書に見える)の新線で、総費用を30万円と想定していた。そして請願書には、調布村だけの利益にあらず、「日々池上本門寺ヘ参詣スル善男善女ノ好都合トナリ以前ヨリ数千倍ノ参詣者ヲ求ムルコト必然タリ」とあるように、数千倍という誇大表現だが、池上本門寺ヘの参詣ルートとしての期待(効果)を掲げている。
この一連の免許申請関連文書を眺めていくと、まず地元(荏原郡調布村)の大きな期待があり、その効用は目黒蒲田電鉄線及び東京横浜電鉄線の利用者を含めた大きなものであるので、それに後押しされる形で池上電気鉄道が地元の希望を背に鉄道敷設免許申請したと読める。だが、この手の申請文書を真に受ける人などいない。いるとしたなら、現実を知らない想像だけでモノを語る経験不足な人であろう。
と、長くなってきたので、この免許申請の真の意味を「その4」以降で考察していこう。といったところで、今回はここまで。
請願が玉川村ではなく調布村であったことは知りませんでした。田園調布2丁目がすでに整地されています。終点が東口の坂の途中にあり、不自然な感じがします。後日環八踏切付近の崖を削った用地はその後の新奥沢ルートになってから工事を行ったのでしょう。次のトピックを楽しみにしています。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/07/23 11:53
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
田園都市株式会社による耕地整理事業に影響を受け、すぐに下沼部地区(現 田園調布二丁目ほか)は耕地整理を行います。しかし、玉川村大字等々力字諏訪分は、玉川全円耕地整理組合として一体的事業を行うとされてしまっていたので「やりたくてもやれない」。まったく近代的交通機関から隔絶された村民との対立もあって、諏訪分地域の人たちは臍を噛んでいたに違いありません。自分たちだけでやれるようにしておけばよかったと。
その後、工区単位で施行することとし、宅地化が進む調布村下沼部から耕地整理事業を施行する諏訪分地域に路線変更がなされたのも、調布村以上の強力なプッシュがあったのかもしれません。
投稿情報: XWIN II | 2010/07/26 07:07
XWIN II様
東玉川の方々は不運としか言いようがありません。等々力の方は大井町線が開通して利益を享受したのも皮肉なことですね。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/07/26 09:00