こういった経緯だったこともあり、後にDOS/Vと呼ばれる初代機を手に入れた割には、専らWindows 3.0で利用していた。その後に起こるDOS/VブームやThinkpadにつながる本機を手に入れたことで、私の中では一気にPC/AT互換に流れていくことになるのである。
(前回─その5─までの続き)
さて、この続きを語る前に、もう一つ振り返っておくべきことがある。それは、私にとってのPC互換機初体験についてである。ノートPCとしては東芝の初代Dynabookこと、J-3100SSであることはふれたとおりだが、これがまったくのPC互換機初体験ではなかった。では、一体何か。そう、それはAXである。
私のPC互換機との最初の出会いは、開発環境として与えられたデスクトップPCで、JEGAを搭載したAXマシン(AX規格PC)だった。覚えている人は覚えているだろうが、PC-9800シリーズを昔から利用していた方でも、AXマシンは存在すら知らなかったという人も多いだろう。それだけマイナー路線一直線だったのが、AXマシンだった。これを使う羽目になったのは、Windows日本語版におけるソフトウェア開発及びその研究のためで、当時、Windowsはバージョン2.1だったが、今では考えられないかもしれないが、異なるPCアーキテクチャ間のWindowsは同じWindowsでありながら、Windows 9x系とWindows NT系以上に挙動が違ったのである。Windows APIを使っているだけでもこんな状況だったので、PC-9800シリーズのWindows日本語版は使い物にならず(開発ターゲットでなかったので)、本家IBM PC/AT互換機で動作するWindows日本語版を求めた結果が、マイクロソフトとアスキーが推し進めたAXなのであった。
しかし、AXは負け組ばかりが集う(PC-9800及び互換機のNECやセイコーエプソン、FMシリーズで踏ん張っていた富士通、海外市場で活躍していた東芝、負け組に近いがそれでも独自シリーズを出していた日立等は不参加)協議会だったこと。まだまだマイクロソフト日本法人は、今ほどの影響力を持っていなかったこと。どどめは国際デファクトスタンダードとは言いながら、IBM PC互換機の最大の普及要因が価格が安価だったことをまったく無視した価格設定(JEGAを実現するための追加ハードウェアが必須)だったこと。ある程度の価格となれば、本家日本IBMのPS/55シリーズ(PC/ATでなくMCAだが)を使った方がよかったことも相まって、AXは落ち目の三度笠状態だったのである。よって、AXマシンに手を出したのは結果的に失敗だったが、いい経験にはなった。それは、特殊なハードウェアを追加するということは、それだけで国際標準から外れてしまうということを身を以て覚えたからであった。
この経験がノートPC選びでも、Dynabookはその衝撃で購入はしたが、これを使用する中で東芝独自日本語仕様では厳しいと感じ、それが日本IBMのIBM PS/55 5535-Sではソフトウェアで日本語表示を実現する(日本語フォントデータはROM内に持ってはいたが、ROMにアクセスするのではなくメインメモリ上にロードして使用)ということ、そして前回にも書いたようにVGAだったことで、一気にIBM PC互換機へと流れていくことになったのである。
振り返ってみて、AXの経験があったからこそ、素性のいいWindows日本語版とはどうあるべきかということを知ることができたと思うのだ。
では、Mobileプロセッサ周りに話題を戻すため、IBM PS/55 5535-Sとはどういうマシンだったかを語ってみよう。一言で言えば、PC-286Lもどき(日本IBMさん失礼!)。東芝Dynabookを見慣れた者からすれば、それは巨大なものでノートPCというよりはラップトップPCと言った方が適当な大きさ、重さだった。そして、色はIBMカラーと言うべきアイボリーホワイト+グレィ。キーボードは、デスクトップPC並のものがそのまま載っているような感じ。正直、VGA搭載でなければ手を出さなかったかもしれない…。そしてマイクロプロセッサは、当時としては順当なi386SX(16MHz)を搭載し、メモリ(RAM)はいわゆるDOS/Vを動作させるため、最低線の2MBだった。液晶ディスプレイは、ビデオサブシステムはVGAだがモノクロSTNだった。当時はまだまだカラー液晶は高価だったので仕方がない。
だが、しかし。カラー液晶は高価だったので仕方がない。使えば使うほど仕方がないで済まないのが、モノクロ液晶だった。カラー液晶搭載機は高価だったが、北米市場に目を向けて見ると(ちょうどPC Magazine等の海外雑誌を見ることが多くなってきた)、5,000ドルを切るくらいのノートPCが出ていることがわかり、思い切って個人輸入を試みた(1990年頃はなかなか手続きが大変だった)。すっかり型番などは忘れてしまったが、このノートPCはカラーはカラーでもカラーSTN液晶だったので、色が混ざるというか、何というか…。わかっている人にしかぴんと来ないだろうが、ゲームボーイカラー並でしかなかった(液晶ディスプレイの「構造」ではなく「がっかり感」。見た目の問題…。というかイメージしていたものとのギャップというか…。)。苦労してやった個人輸入、5,000ドルという大枚、その結果があまりにみじめなカラー液晶。雑誌広告ではもっと綺麗だったぞ!等とは負け犬の遠吠えでしかない。結局、この輸入ノートPCはわずか10日ほどで知人に譲り渡してしまい、再びモノクロ液晶生活に戻ったのであった。
それが1991年(平成3年)10月に、NECからついにノートPCの液晶ディスプレイとしてカラー液晶が搭載されたPC-9801NCが登場した。もう、PC-9800シリーズには手を出すことはないだろうと思っていた当時だが、発売日にすぐに秋葉原まで出向いてすぐに購入してしまった。ラップトップPCを使い始めて、モノクロ液晶の不便さに泣いていた反動であったのは当然だが、さすがにTFTカラー液晶は美しかった。640 x 400を久々に見ると縦方向が狭く感じたものだが、CRTディスプレイの表示よりも美しいTFTカラー液晶の魅力によって、再びメインノートPCはPC-9800シリーズに戻ったのだった(特にアナログRGBを必要とするゲームは素晴らしかった)。
ちなみに、PC-9801NCの搭載マイクロプロセッサもi386SXであった(ただし、20MHz版と滅多に見られないものだったが)。日本語環境を快適にするには、80386の仮想86モードが当時は欠かせなかったので(MS-DOSで言えば、HIMEM.SYSとEMM386.SYS→のちにEMM386.EXEによるデバイスドライバ再配置)、省電力と回路設計の関係からノートPCでは、i386SX互換しか選択肢がなかったのである。
PC-9801NCによるノートPCへのTFTカラー液晶搭載によって、他メーカからもこれを搭載するノートPCが増えてきた。しかし、私が待っていたのは、日本IBMのPS/55 noteのカラー版だった。それが登場したのは1992年(平成4年)秋、PS/55note C52 486SLCというやたらと長ったらしい名前のものだったが、TFTカラー液晶搭載と言うことだったので、100万円近い価格だったが、即座に購入したのである(たぶん日本においては最初期10人の一人には入っていると思う)。これこそが、北米ではThinkPad 700Cと名付けられた初代ThinkPadだと知ったのは、購入してしばらく後のことだった(本体にはThinkPadというロゴが書かれていたのだが、当時の私は気にも留めていなかった)。
このPS/55note C52 486SLC(ThinkPad 700C)は、型番に486SLCとあるように搭載するマイクロプロセッサは、IBM 486SLCである。486という型番ではあるがIntel社の80486系ではなく、80386系のサブセットであるi386SXの類似品(ピン互換)という存在であった。なお、486SLCという型番はIBM社のほかに、互換プロセッサメーカCyrix社のマイクロプロセッサにもCx486SLCというものがあったが、i386SXピン互換でx86プロセッサであるという以外は似て非なるものである。
で、IBM 486SLCは単にIBM 386SLCの改良版で、今で言うなら45nm Nehalemと32nm Westmereくらいの違いしかない。もうちょっと前で言うと、Pentium II(Deschutes)とPentium III(Katmai)くらいの違いと言っていいだろうか。要するに386から486と型番を変えているが、Intel社の80386と80486ほどの違いはなく、一部486系命令セットの追加とキャッシュメモリの増量(8KB→16KB)程度の違いであった。ちなみにSLCとは「Super Little Chip」(当時はChipを「欠片」と邦訳する文献もあった)とIBM社公式は言うが、本当はIntel社と同意のSLにCMOSのCを付けたと私は考えている。
IBM社が自社でこのようなマイクロプロセッサを用意していたのには、もちろん理由がある。最近の人はご存じないだろうが、1980年代にIBM PCが誕生して以降、マイクロプロセッサの巨人Intel社もOSの巨人Microsoft社も、いわゆるBig Blue、IBM社の下請け会社レベルに過ぎなかった。PCの部品であるマイクロプロセッサをIBM社に提供したのがIntel社、OSを提供したのがMicrosoft社であり、両社の「部品」はIBM社にも製造する権利を与えていた(与えていたと言うよりも、逆にIBM社以外への販売も許されたと言うべきか)。よって、まったく著作権問題など無縁でIBM社はx86プロセッサを製造する権利を当時は有しており、それを独自改良することもできた。IBM 386SLC及びIBM 486SLCは、Intel社の提供するマイクロプロセッサのラインナップではノートPCに採用できないという判断が働き、独自に製造したというわけである。
i386SXがノートPCで利用できないと判断されたのは、パフォーマンスと省電力性能のどちらにも該当するという、Intel社にとっては情けない理由だった(Intel社は1990年代初頭、AMD社やCyrix社等と80486系を巡る開発競争に追い立てられ、ノートPC向けプロセッサの開発どころではなかった)。i386SXは、Cyrix社の互換プロセッサの台頭に見られるように性能面で劣っていたばかりか、消費電力も他Intelプロセッサよりは低かったが、けっして満足できるレベルのものではなかったために、IBM社が自社開発し、それを自社のノートPC等に搭載するという流れが出てきたのである。
──と、長くなってきたので、今回はここまで。
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