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2010/02/12

コメント

馬込町
目につくのは馬込町の南北千束の飛び地です。旗本の知行地のように中延飛び地もありますが、何か事情があったのでしょう。

木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
作図上の問題から、馬込町が飛び地のように見えますが、実際にはつながっています。明治22年の町村統合時、馬込村は単独で一村を構成しますが、基本的に飛び地を認めないという当局の方針(小規模のものを除く)から、千束は馬込村から分離される危機を迎えます。
この時、隣接する池上村を構成することになる上池上村の一部(字平塚の一部。今日の夫婦坂付近)を馬込村に分割したことで千束と馬込本村が地続きとなり、一村として成立することができました。一方、池上村は馬込村から千束池を得、この結果、池上村と馬込村の境界が千束池で区切られるようになったのです。

飛び地については明治22年以前には、それこそ多数あり、その理由は同一地主だったことによるかと思います。江戸期には自由に土地の売買などできなかったでしょうから。

XWIN II様
情報有り難う御座いました。東急50年史の大井町線の建設担当ゼネコンが大岡山から環七迄を馬込村として区分されています。
 しかし我々が一般的に馬込といえばプロパーな部分を意味し、少年の頃は半農村的なイメージでした。他方千束のイメージは進学校としての赤松小学校の学区というイメージでした。以前馬込町であったことを知っている人は僅かでしょう。管轄の警察署も東調布(田園調布警察)ですし、現在では、行政地区もむしろ調布地区です。

木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。

仰せの通り、千束はいわゆる調布地区ですね。いつからこうなったのか? というのは興味深いですが、警察署の管轄というのはよほどのことがない限りは変更されないので、おそらくは田園調布警察署(東調布警察署)発足時にさかのぼるのではないかと思います。
東調布警察署は、昭和10年に現在の東急雪が谷検車区にできているので、馬込村(町)時代では大森警察署管内なので、この頃に調布地区扱いされたのかな、と。
また、役所の記録を調べる必要がありますが、大森区発足時、千束地区は大森区役所管轄だったのか、それとも大森区役所分所(直前の東調布町役場でいわゆる調布地区を管轄)だったのか。
これらを確認できれば、千束地区が馬込からの独立(縁切)を果たす流れが見えてくるでしょう。

XWIN II様
情報有り難う御座います。
 調布町役場は調布地区の行政機能と種々の行政サービスの中心になっており、東調布警察署も昔は調布大塚の駅の向かいにあり、現在は付近に水道局、雪谷税務署、保健所や大田区役所の行政センターもあり、雪が谷大塚はミニ官庁街を形成しています。
 反対に池上線の内側の馬込地区は長らく農村の雰囲気を残しており最近迄畑作が行われていました。都営浅草線が西馬込迄開通した時にもっっと発展すると思いましたが思いのほか伸びませんでしたね。人口減少の時代に突入して急激な発展は望めないでしょう。

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