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2010/02/09

コメント

またまた貴重な写真有り難う御座いました。
紳士が着ているマントは当時上流階級が愛用していたインバネスのようですね。

昨日、「洗足田園都市」のあたりを、「周遊」してまいりました♪

この地で生まれ育ったというのに、洗足五叉路から上に坂を上がる部分で、全く未踏破のところがあったこと、自分でも驚いています。洗足会館も、弁天池も、小さいときに来たことがあるのかもしれませんが、記憶になく……弁天池って、地図上で見ると、もう少し大きい感じがしたのですが、昔からあのくらいの広さだったのでしょうか?かわいい池ですね。

洗足田園都市……今でも、個性的な街並みです。なかなか美しいですね。
デザインに凝った家もあります。南面に全く窓のないうちなんて、どうよ~と、一緒に歩いた友人(この地在住)と、顔を見合わせてしまいました。
その後、洗足のミスタードーナッツで、お茶。
いやいや、ミスドで中華そばが食べられるとは知りませんでしたよ。

コメントありがとうございます。

「当時上流階級が愛用していたインバネスのよう」←和服の上に着る外套。確かに戦前の上流階級が写る写真にもよく見えます。

「弁天池って、地図上で見ると、もう少し大きい感じがしたのですが」←確実に狭くなっています。いつからなのかは未調査ですが、現在の弁天池の道路を挟んで南側(現 駐車場)も弁天池でした。弁天池を渡る道路には橋が架かっていましたが、これは現在も欄干(橋名標)が残されています。

「洗足田園都市……今でも、個性的な街並みです」←その昔、分譲当時は洋風建築地区という指定もあって、エキゾチックな洋館が多かったようです。現在では洗足田園都市内にはほとんど残っておらず、隣接する地域に一部当時をしのぶことができる建物が残っていますね。

パンプレットに描かれているいわゆる震災後のモダニズムの流れを汲むいわゆる洋館で、始めは庭に垣根も無かったアメリカ東海岸のムードをだだよわすものでした。震災後の特徴として屋根に軽いルーフィング材が使われていることです。父は重い瓦葺きの家の多数が倒壊しているので柱にはトラス、屋根はスレート葺きとして地震に備えましたがB29には勝てませんでした。

りっこ様
弁天池はたしかに昔は広く,深く、子供が溺死したほどでした。武蔵野の崖線の湧き水の枯渇が原因でしよう。

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