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2009/11/21

コメント

ありがとうございます!
嬉しかったのは、写真の解像度がとても上がったことで、周囲の風景がはっきりわかりましたね。私にはそういう技術がないので、改めて「こういう写真だったんだぁ~」と、感慨深かったです。感謝感謝です。
この写真集は、どちらでごらんになりましたか?昭和大学にあったでしょうか。もしそうだとしたら私は見はぐってしまいました。
ところでこの電車ですが、私も全く「鉄子」ではないので、推測ですが、デハ20形かな?と。池上電気鉄道が、大正15年に鉄道省から購入した木造車であり、最も車両数の多い形式だと、「街と駅 80年の情景」の37ページに書かれておりました。この写真の車両とそっくりなので。

りっこ様、コメントありがとうございます。
写真集は、品川図書館をご紹介いただきましたが、昭和大学の方が自宅からは近いので(しかも昭和大学病院には入院経験もあったりする)、関係者を通じ見せていただいた次第です。実際に行っていないので何ともいえませんが、記念館にもあるそうです。
デハ20形というお話し。確かにシルエット的にそんな感じがします。デハ20から29まで全部で10輌あったとのこと。目黒蒲田電鉄に合併されてしばらくして、デハからモハ30系に改名されたようで、東京横浜電鉄沿革史512ページには「モハ30型」と書かれています。

木造国電電車マニア
写真有り難うございます。小生は近所の第二延山小学校に通っており遠足でよく利用しましたので当時の思い出が蘇ります。駅前商店街には同級生も何人かいました。旧中原街道とつながっていましたので結構繁盛していたようです。長原方向に最初の踏切でトラックと衝突事故を起こし小学生が犠牲となったことを思い出しました。木造電車もあっというまに鋼鉄製に改造され大井町線を走っていました。また長原寄りに折り返し用の亘線があり第3種直動式連動装置のポイントが地下化入り口の手前につい20年ぐらい前までのこっていました。

木造国電電車マニア様、コメントありがとうございます。
貴重なお話しありがとうございます。やはり、資料だけでは片手落ちで実際に見て体験された方のお話しが重要なポイントだと改めて実感できます。
今後ともよろしくお願いいたします。

旗の台に住んでまして、昭和26年生まれです。
旗ヶ岡駅が旗の台に移転する年に生まれてます。
この辺の様子をWebサイトの「マイプレ品川」書くのに旗ヶ岡駅の写真が使いたいのですが、
駅舎の写真を使用してもよいでしょうか。
ご承諾願えれば幸いです。
宜しくお願いします。

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