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2010/04/24

コメント

慶大グラウンド前駅の南側の東側から撮影された通路がホームの跡であろうと思いますが,当時は1両で運転されていることを考慮すれば上りに向かってカーブにさしかかった所でも緩和曲線の部分ですので問題なかったのでしょう。北側の駅に接続されている旧道は六郷用水に沿った平間街道から駅えの進入路だったのでししょう。耕地整理と混在する所は他にも例がある様に思います。

こんにちは。古い記事にコメントですが、誰も指摘していませんが、慶大グラウンド前駅は、池上電鐵が、目黒蒲田電鐵の傘下入りしたあたりから、慶大グラウンドに駅名を変更しています。当時の乗車券や路線図でも確認できます。一応、100年史担当の方にも、連絡しましたが。

追伸、宮田道一氏著、東急の駅 P10~11の路線図。

コメントありがとうございます。
慶大グラウンド前駅の出自は、目黒蒲田電鉄との争いの渦中に生まれてきたものなので、目蒲傘下に入る以前からこの駅名はありました(昭和以前の大正15年)。つまり、変更ではなく、新設なのです。光明寺駅との併存は確実にあったという史料は見出せていませんが(「慶大グラウンド前駅と光明寺駅が両方同時期に存在したことが確認できる地図」という記事を検索して確認されてください)、光明寺駅の廃止と慶大グラウンド前駅の開設との間に1〜2年の間があったこと、加えて当時の池上電気鉄道提出の信号関連工事の図面を見ると相並び立つように記載されていることからも、駅(停留場)として生きていたか死んでいたかはともかく、光明寺→慶大グラウンド前駅への改称でないのは自明と見ています。

訂正ですが、多分、経営権を握ったのでグラウンドは武蔵新田が、近いとばかりに、駅名から、前を取ってしまったのでは。事実、東急の駅 今昔 昭和の面影、記載の路線図もグラウンドが武蔵新田寄りになっていますし、この頃の池上電鐵の乗車券も、慶大グラウンド前から慶大グラウンドになっています。

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