新年最初の記事(感想のような物を除く)は、東京都渋谷区を構成する旧渋谷町(1932年=昭和7年に東京市に合併)における町名(地名)変遷の大きな「軛」の一つとなる1928年(昭和3年)に成立した大字名(町名、地名)が戦後の住居表示によってどう変化したかを見ていきたい。旧渋谷町については、当blogでも「東京都渋谷区に「町」(ちょう)と読む町名が多い理由」とか「渋谷区神南は、いつから「じんなん」と呼ぶようになった?」で採り上げてきているが、以上の記事を踏まえてのものである。
まずは、旧渋谷町について簡単に概要をふれておく。旧渋谷町は町制施行前は渋谷村であり、その誕生は我が国のほとんどの町村と同じく1889年(明治22年)に成立(当時の人口は約6千人)。人口増により1909年(明治42年)に町制施行(当時の人口は約3万5千人)。明治末期から大正期にかけて人口増は続き、大正末期には人口15万人を超え、町村のうち第一位であったのはもちろん全国の市を含めての順位も30位あたりに位置するほどであった。しかも、町域は現在の渋谷区の約半分(イメージとして現在の渋谷区から原宿駅以南が旧渋谷町)であり、人口密度という点でも全国屈指のものがあったのである。
こういった情勢の中、旧渋谷町は自ら水道事業を興すなど、積極的に町民のための事業を推進し、その中の一つが「大字整理事業」だったのである。村時代の複雑犬牙錯綜する大字・小字境界や飛び地番を整理し、近代的なものとして効率的な行政や町民活動の便を資すことが目指された。事業は大正後期に検討が始まり、大正末期には事業が進められ、年号が変わる頃には東京府や国に対して「案」が提出され、1927年(昭和2年)に双方から許認可がおり、晴れて年明けの1928年(昭和3年)1月1日に施行された。
では、その時の街区を示した旧渋谷町の図を以下に示そう。
旧渋谷町の大字・小字整理事業に特徴的なのは、いわゆる街路割(路線式)と街区割(街廓式)の二つが混合していることに尽きる。街路割を採用しているのは、
- 上通一~四丁目(かみどおり)
- 中通一~三丁目(なかどおり)
- 下通一~五丁目(しもどおり)
- 神宮通一、二丁目(じんぐうどおり)
- 大向通(おおむかいどおり)
- 栄通一、二丁目(さかえどおり)
- 八幡通一~三丁目(はちまんどおり)
- 公会堂通(こうかいどうどおり)
- 恵比寿通一、二丁目(えびすどおり)
の23大字(丁目一つで一つの大字を構成)。残る以下の43大字、
- 竹下(たけした)
- 神園(かみぞの)
- 神南(かんなみ)
- 北谷(きたや)
- 宇田川(うだがわ)
- 神山(かみやま)
- 松濤(しょうとう)
- 大山(おおやま)
- 円山(まるやま)
- 神泉(しんせん)
- 青葉(あおば)
- 美竹(みたけ)
- 宮下(みやした)
- 金王(こんのう)
- 並木(なみき)
- 大和田(おおわだ)
- 桜丘(さくらがおか)
- 南平台(なんぺいだい)
- 鶯谷(うぐいすだに)
- 鉢山(はちやま)
- 猿楽(さるがく)
- 田毎(たごと)
- 丹後(たんご)
- 代官山(だいかんやま)
- 衆楽(しゅうらく)
- 長谷戸(ながやと)
- 緑岡(みどりがおか)
- 常磐松(ときわまつ)
- 氷川(ひかわ)
- 若木(わかき)
- 羽沢(はねざわ)
- 宮代(みやしろ)
- 上智(あげち)
- 永住(ながすみ)
- 豊分(とよわけ)
- 元広尾(もとひろお)
- 原(はら)
- 向山(むこうやま)
- 山下(やました)
- 新橋(しんばし)
- 豊沢(とよさわ)
- 景丘(かげおか)
- 伊達(だて)
が街区割となる(なお、図中では緑ヶ岡と桜ヶ丘に「ヶ」を入れてあるのは誤植ではなく、意図的に入れている。理由は…(以下略))。街路割と街区割を混在させた弊害としては、街路割同士または街区割同士の境界は妥当性がある(当時、大字整理を行った最大の理由=建前として複雑怪奇な境界線をあげていた)が、街路割と街区割との境界は道路など明確なもので区切られず、家屋と商店といったようにかなり曖昧な線引きが成されたために、複雑怪奇な境界線を新たに生んでしまったからに他ならない(作図に時間がかかったのもこれに尽きる)。
本来なら、旧渋谷町の大字・小字整理前の図を載せて比較するのが適当だが、時間がないので割愛(後日作成予定)。旧字名を新大字名として継承(部分的なものを含む)したのは、
- 大向通(おおむかいどおり)
- 竹下(たけした)
- 宇田川(うだがわ)
- 神山(かみやま)
- 大山(おおやま)
- 神泉(しんせん)
- 並木(なみき)
- 大和田(おおわだ)
- 南平台(なんぺいだい)
- 鉢山(はちやま)
- 猿楽(さるがく)
- 代官山(だいかんやま)
- 長谷戸(ながやと)
- 常磐松(ときわまつ)
- 氷川(ひかわ)
- 羽沢(はねざわ)
- 豊分(とよわけ)
- 元広尾(もとひろお)
- 向山(むこうやま)
- 豊沢(とよさわ)
- 伊達(だて)
の21大字と全66大字の三分の一(丁目の重複を除けば52大字中21大字と約四割)が旧字名を残したことになる。途中、1932年(昭和7年)に念願の東京市となった際、大字名すべてに「町」字(読み方はすべて「ちょう」)を付し、これが戦後の住居表示制度によってこのように変わった。
旧渋谷町の外形のまま、渋谷区の町域を当てはめているので、図上側(北側の旧代々幡町や旧千駄ヶ谷町との境界)がうまくフィットしない点はご容赦願いたい。図を比較すると、すべてが街区割を採用したこともあるが、新設された名称が消滅してしまったものも少なくない。途中から住居表示のルール変更が変わり、この結果として代官山町、南平台町など丁目が付かない単独町が起立し得たが、そうでなければ渋谷駅東側や恵比寿駅周辺のような面白くも何ともない町名に塗り替えられた可能性も否定できない。(2024年3月23日追加注:上図にある道玄坂一丁目と同二丁目の位置が逆になっています。コメントでご指摘いただきありがとうございます。いつかはお約束できませんが、クリーンナップした上で修正地図を作成しますので、今暫くお待ちください。)
といったところで、今回はここまで。地域歴史研究系のネタは当面の間、これとする予定(あくまで予定で気が向いた等で変わる可能性があります)。
東京都渋谷区、町名変遷の歴史昭和時代編その2
東京都渋谷区、町名変遷の歴史昭和時代編その3
東京都渋谷区、町名変遷の歴史昭和時代編その4
東京都渋谷区、町名変遷の歴史昭和時代編その5
考え過ぎかも知れませんが、山手線の西側の丘陵地帯には有力者が多く住んでいる関係で、無味乾燥な町名を避けたのかもしれませんが、東側でも常磐松や金王という学校名にもなっている歴史的に由緒あるものもありますので残念です。私事で恐縮ですが弟が青山学院の小学部の緑が岡小学校を卒業しましたので特に感慨無量です。
文化破壊もこの辺で打ち止めに願いたいものですね。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/01/08 19:15
もう一つ気が付いたことですが、市電、玉電や幹線道路に沿って江戸時代の切り絵図が示す町奉行が差配する地域が屋敷町と区別されて何々通りとなっていて昔の習慣が残っているのが興味を引きます。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/01/12 08:09
亡くなった父の本籍である東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町大字隠田116番地の現在の住所を探しています。父の戦前戦後の話しを聞いていました。
私の息子と父の生まれ育った地に出向きたいと思っています。
どうか宜しくお願い致します。
投稿情報: [email protected] | 2023/04/19 19:15
枯れたBlogにコメントいただき感謝申し上げます。
近いうちに記事として取り上げる予定でいますが、簡潔にお答えだけ述べておきます。
東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町大字隠田116番地は、東京都渋谷区神宮前六丁目7番8号(ネスト原宿6)あたりです。
渋谷川(今は暗渠)にかつて架かっていた隠田橋近くにあたります。
投稿情報: XWIN II | 2023/04/21 07:02
道玄坂で働く者です。「東京都渋谷区、町名変遷の歴史──昭和時代編」の二番目の地図の道玄坂一丁目と二丁目の南北の位置が逆ではないかと思うのですが。円山、松濤、宇田川と接するのが道玄坂二丁目で、南平台、桜丘と接するのが道玄坂一丁目ではないでしょうか。ご確認よろしくお願いいたします。
投稿情報: シミズ | 2024/03/22 14:19
10年以上前の記事に訂正コメントいただき、感謝申し上げます。地図の修正については、現在のテクノロジで作成し直すつもりでいるので、修正含め、今暫くお待ちください。
投稿情報: XWIN II | 2024/03/23 07:23