「東急池上線の高圧線(鉄塔)はいつ頃から背が高いものになった?」
「続・東急池上線の高圧線(鉄塔)はいつ頃から背が高いものになった?」
2019年初めの記事は、7年以上前に書いた記事の続きである。東急池上線の洗足池駅付近から千鳥町駅付近まで続く、あの鉄塔。ガントリー鉄塔という名称のようだが、かなり以前に収集した資料を整理していたところ、次のような文書を見つけた。
昭和9年(1934年)5月31日付「電気工事方法書中事項変更認可申請書」。既に目黒蒲田電鉄に株式買収による統制を受けていた池上電気鉄道が鉄道大臣に申請した文書である(収受年月日は昭和9年(1934年)6月2日)。変更とある以上は当然当初申請があり、これは昭和7年(1932年)1月8日付で、五反田駅〜蒲田駅間軌道上において東京電燈株式会社によるガントリー鉄塔建設及び送電を行わしめるものだった。ところが、五反田駅及び蒲田駅付近は鉄塔建設困難なことから、これを「蒲田起点三・一粁慶大グラウンド駅付近ヨリ洗足池駅付近六・五八粁ノ区間ニ於ケル「ガントリー」鉄塔ヲ設計変更ノ上建設」(慶大グラウンド駅は原文ママ。正しくは慶大グラウンド前駅)へと変更するとしたのである。
この決定は鉄道省により、昭和9年(1934年)7月9日に許認可されているため、あの高圧線鉄塔(ガントリー鉄塔)はどんなに早くても昭和9年(1934年)7月以降に完成したと考えられる。つまり、前回においてはあの高圧線鉄塔は昭和7年(1932年)以降としたが、これを昭和9年(1934年)以降と改めると同時に、完成時期も昭和12年(1937年)までずらすのではなく、過去コメントですぐにできたという年代感から遅くとも昭和10年(1935年)には完成したとする。
といったところで、久しぶりに地域歴史研究話はここまで。
久しぶりにこのブログを開いて、「あ~今はもう更新してないんだろうな」と思ったら、なんと!2019年4月。ということは平成最後の月に更新されていたんですね。嬉しいです!
「昭和7年」ですか。ありがとうございます。はっきりわかって嬉しいです。
手持ち写真の昭和4年には高圧鉄塔がなく、10年のにはある。
この間だろうなとは思いましたが、明確にされてスッキリした気持ちになれました。
また、時々でいいので、ブログ更新していただけたらと思います。
時は流れていきますね。もう令和なんだ。
昭和が二つ前の元号になってしまいました。なんか寂しいです。
大正の方の貴重なお話を聞く機会もどんどんなくなっていきつつあります・・・
投稿情報: りっこ | 2019/06/03 19:54
どうも、ご無沙汰しています。
責任ある立場になってしまったため、常に部下の監視下にあり(苦笑)、加えて常時接続状態であることから(便利にはなりましたが)、真の意味での自由時間がほぼなくなって久しいのです。空き時間も細切れで、Twitterで遊ぶくらいならまだしも、腰を据えてじっくり考察しながら記事を書く時間が取れない・・・。
そんなわけで、貯めに貯めた資料も読むことはできますが、分析している時間がなく、今回の記事もただ単に書いてありましたレベル。
働き方改革も突き詰めれば、単にゆとりがなくなっていくだけでしかないので、報酬は増えても自由時間とゆとりがないという・・・。愚痴ばかりで申し訳ないのですが、こんな働き方もそろそろできなくなるでしょうから、その暁には余生と共に書き連ねていこうとは思っています。
INPUTはできているので、あとは考察して史料批判した上で世に問うてみよう、と。そんなわけで今しばらくお待ち願います。
投稿情報: XWIN II | 2019/06/04 13:57
あの鉄塔のおかげであの鉄道会社系の建設会社にいるとき電力会社とお話がスムースに行きました。一般的に私鉄は電力部門(配電網を含め)東電にタダ同然でとられているのでその貸し借りは永遠に続くでしょう。千鳥町の変電所は住んでいた久が原から下丸子の模型屋快飛堂まで息のによくあの前を通りました。当時は(昭和37年から42年ころまで)あの変電所前にどぶ川が流れていました。
投稿情報: deha3300 | 2019/09/13 14:59
「快飛堂」で検索したら、このブログに行き着きました。
半世紀以上前、下丸子に住んでいた子供の頃、入り浸っていた模型やです。私は鉄道模型でしたが、快飛堂の店主達はUコンの飛行機を良くやっていて、店の裏の石炭ガラ?の空き地で、良く飛ばしてたのを、側で見ていました。
何十年もまえ、長じて、付近に行ってみたら跡形も無くなっていました。側の多摩川通り沿い(環八の側)に移転したところまでは知っていますが、そのご、店を閉めたのか、どちらかへ移転したのか、もしご存知でお教えいただければ幸甚です。
投稿情報: パバーヌ | 2023/09/26 10:33