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2009/12/16

コメント

現在の横須賀線で昔の品鶴線の上りの大崎方面と品川方面の分岐点に蛇窪信号所があり、展望車の方向転換に利用されており、特急ツバメ号の列車の入れ替えを大井町線の電車の窓から目撃したことを記憶しております。現在は西大井駅となっておりますが、現在本線では滅多に見られない未だに平面交差です。保安上問題があると思いますが用地の取得は至難の業でしょう。

木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
掲載した昭和4年の1万分の1地図でも右上に確認できるVの字路線の場所ですね。下神明駅の上り方向ホームから私も見たことがありますが、埼京線や横須賀線等、ますます利用者の増える路線でしょうから「決定打」がほしいところ。用地買収よりも小田急線等のように重層構造しかないのかな、と。

平面交差は英国や上野のような都市の中心部に突き出ている終着駅方式の多いヨーロッパでは動力車の付け替えの関係で多数見られますが,日本の様に神経質に脱線転轍機などを設けておりません.過密ダイヤでないので安全性が保たれているのかもしれませんね。

思い起こせば、といっても現物を見ているわけではありませんが、路面電車は平面交差が当たり前のようにあるので、やはりスピードまたは密度がそれほどでなければいいのかな、と。終着駅方式の駅は、数か月前にパリに行ったときにたくさん見たので、おっしゃるお話しはよくわかります。ありがとうございました。

四年前のブログへのコメントで申し訳ありません。祖父は鉄道省官吏で、父は下蛇窪鉄道官舎において誕生しました。この鉄道官舎がどのあたりにあったのか知りませんが、おそらくその痕跡などはまったく残っていないのでしょう。

平塚村民の子様
小生も大正15年に平塚村大字中延に生まれたものですが、都立中央図書館で複写で入手した「東京府下平塚町全図(大正15年)」によりますと、大字下蛇窪字鎧が台に大井工場官舎とあります。東京府荏原郡大井町平塚村の地図には(鉃道院工場敷地」と隣接する品川町字権現台の記載がありますが、お爺様は昔の大井工機部にお務めだったのでしょうか。この地図によると敷地は現在は品川区役所に成っている工場の敷地の南西端に接しておりますが、中央を東急大井町線が横断する様に予定線が描かれていますので、民間に払い下げと成ったのでしょう。現在の双葉町1丁目で、大井町駅から大井町線に沿って下神明駅に向かって歩いて品川区役所前信号機の所で三間通り商店街と分岐する辺りではないかと思います。地図の南北が反対ですので位置を掴むのに苦労しました。ご参考になれば幸いです。

平塚村民の子様
下蛇窪鉄道官舎に関してこのブログで以前に大井町線の大井町駅に接続する用地買収に関して、当時の鉃道院の工場敷地の一部を譲ってもらった経緯が記載されてたことを思い出しましたが、何時であったか思い出せません。掲題の用地も一緒に東急に譲ったのかも知れません。小生の記憶に残っている大型の鉃道官舎は大井町のゼームス坂の通りと東海道線の間の浅間台にありました。参考迄に追記します。

木造院電車両マニア様
情報をいただきまして有難うございました。祖父の経歴の一部に東鉄大井工場という記述がありました。また、鉄道官舎の住所として、品川区大井山中町4191と書いてある資料がありました。

平塚村民の子様
昔の鉄道省の方は事務官と技官とありましたが、家内の姉の亭主が国鉄に勤めていて小倉の官舎に住んでいましたが、中に共済組合の売店があり、福利厚生がかなり充実していたような印象を受けました。大井山中町4191は、手持ちの昭和8年の地図では上杉氏別邸となっており、現在は大井3丁目で集合住宅が何軒か建っている団地のようになっています。昭和30年代に大井庚塚町に住んでおりましたが、ここに官舎があったかどうか記憶が定かでありません。

蛇窪~へびくぼぉ~・・・って駅に到着したら言ってたのかしらね。
父は祖母が「蛇窪うんぬん・・・」と言っていたので聞いたことはあるけど・・という程度にしか知らなかったみたい。
うちは曾祖母の代から荏原二丁目ですが、知らなかったなぁ。
私は巳年うまれなのでちょっとかなり?親近感がわきました。
お勉強になりました。ありがとうございます。

へびどし様
小生は大将15年に荏原軍平塚村大字中延に生まれましたが、蛇窪の駅名は記憶に残っております。三井農園が戸越公園になってから駅名が変わりましたが、蛇窪と言う名前は現在の西大井駅の付近にあった品鶴線の大崎と品川和への分岐点にあった「蛇窪信号所」として地名が消えてからも長い間残っていました。荏原2丁目は昭和20年4月24日の空襲で大きな被害を受けた場所ですね。小生の実家も罹災しました。

大変興味深く読みました。実はわたくしは、昭和7年に下蛇窪に生まれたのですが、2年後には千葉に移転して、一度も生地に行っていません。一度は訪れたいと思っています。

6年半ほど前の記事へのコメント、ありがとうございます。
さて、改めて思うことは、この手の記事は基本まったく古くならないと言うことを思い至りました。
最近は仕事多忙により、ほとんどまとまった記事を書くことができない状況なのですが、チャンスがあれば再び書いてみたいものです。

2009年のコメントにもあるように、JRの施設名としては現役ですね。
鉄道ファンにとってはむしろ、なじみのある地名です。
逆に、鉄道に縁の地名だと、千葉県の習志野や津田沼とか葛飾区の高砂は
近代になってからの新しい地名です。

枯れたBlogにコメントありがとうございます。
駅名に採用された由来なども、知れば知るほど奥が深いと実感します。

こんにちは。とても興味深い内容でした。
ただし残念なことに建議書の読み下し文にいくつか間違いがありました。
6行目。然共世運ノ進展…「然共」はシカレドモと読みます。
12行目。将亦住宅地域トシテ…「将亦」はハタマタと読みます。
16行目。如上蛇ノ一文字ヲ排セズ…この「如」はちょっと難しい。ここではモシと読みます。
仮定の意味になり、「モシ上蛇ノ一文字ヲ排セズ」と読むのです。
また、その先の「将亦」はすでに出てきたように、ハタマタと読みます。
昭和に書かれた文書といっても、この時代の公文書は文語文で書かれていましたから慣れないとうっかりしてしまうものです。
ぜひ参考になさってください。

枯れたBlogにコメントいただき、どうもありがとうございます。
まだまだ戦前の文書を読み下すには修行が足りません。
ご指摘いただいたことも含め、精進します。

目黒の蛇崩はじゃくずれですが 蛇窪はじゃくぼ とは呼ばないのでしょうか?
お教えください

 蛇窪の由来は地図に表されています。

 令和19号台風被害報道の中で識者が「住宅の立地の検討にはハザードマップと旧地名を重要視しなければならない」と言われていたので、早速品川区浸水ハザードマップをプリントアウトし浸水予想の色分けを見てその形に驚きました。
 現目黒川脇の浸水危険度が高いのは当然でしょうが、川の無い所に広町から西南方向二葉を通って中延から北西方向に畝畝と続く浸水危険度の色分けに蛇を見て取れると感じました。やはり旧地名は現代にも生きているんですね。

蛇窪もそうですが僅かながらに昔の地名を残している場合が品川区は多いですよね。
源氏前たったり森前だったり、家は庚塚の町内会です。

「源氏前」に反応させていただきました。友人に源氏前小卒業生がいるので。地名としては残っていなくても、施設名として残っている場合もありますね。
数年前、私の出身小の集まりで、「地名もないのに、ウチの学校は何でこの名前なのか?」という疑問が出て、私は「それは昔、あの辺りが『清水頭』という地名だったからよ。」と応答。(位置的にはちょっとずれますが、まあ大体合っていると思うのですが)

神明社が伊勢神宮の系統と知って、下神明を思い出し、地図に上神明も在る。では神明社はどこに? ところが地図に無い! あちこち調べると、天祖神社に併祀らしい。それも蛇窪神社のこと。一昨年の夏、前を通り掛った時、地元の若衆が祭の稽古をしていた。あそこか、ということで一件解明。それにしても参考資料の「最近荏原町政史 全」を著したのが、鏡省三さん。今から60年以上前、品川区議会議員を何期もつとめた方とは。自宅の近所の方だったので、選挙の度にポスターを目にしていました。

昭和6〜7年の頃、私は3歳位だったと記憶してますが、蛇窪に住んでいました。家の周囲は一面の畑でした。台風で屋根が飛ばされた記憶があります。  

家の斜向かいに朝鮮人部落が有り、幼かった私は毎日ように部落の近くで一人で遊んでました。白い粗末な服を着た朝鮮のおばさんが金物の盥で鳥の皮を洗ってるのを見て何に使うのかと思いました。                                             

ある日、日本の警察がこの部落から大勢の朝鮮人を数珠つなぎにして連行していくのを見ました。朝鮮人たちは白い服を着て頭からすっぽりの藁で編んだ笠を被せられ手は縄で縛られていました。幼心で朝鮮人が可愛そうに思いました。

祖父の出生地を調べているうちに、ここにたどり着きました。 彼は朝鮮人で、出生届には昭和7年に大字上蛇窪1541番地で生まれたと書かれています。私自身、つい1週間前に東京に行ったのですが、地名が変わっていて現在どこを指しているのか全く分かりませんでした。今日、偶然このブログを発見し、とても嬉しく思います。 後で東京にまた行く機会があれば、ぜひ行ってみようと思います。 ありがとうございました。

枯れたBlogにコメントいただきありがとうございます。
東京府荏原郡平塚町大字上蛇窪1541番地というと、明治44年(1911年)当時の地図を確認する限りですが、上蛇窪に地番は1〜500番台までしかなく、その後の地番整理において400番台までに削減されていることを踏まえると、戸籍の記載誤り(結構よくある。届出者が誤っていることが大半)の可能性も指摘できます。

「まな」さんて人、本当なら今95才のおばあさんなんだけど本当なんでしょうか。
文章の端々から、疑わしいとおもってしまうんですが・・
蛇窪神社はリニューアルしてずいぶんと綺麗で楽しい神社になっていましたね

西大井に数少ないけど何戸か明らかに古臭い趣きありすぎる家があるよね、表側理容店やお店、裏は家。
裏道入ると色々察するよね、歴史は上の通りかな?

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