さて、ほとんど週一連載となっている地域歴史研究シリーズ「亡き池上電鉄の駅跡を探るの巻・第四弾 旗ヶ岡駅編」のその3(勝手に思いつくままシリーズ名を付してみたが、センスないなぁと実感)。前回(その2)は旗ヶ岡駅の歴史を探るどころか、池上電鉄草創の歴史を探りそうになってしまい、思いっきり横道に逸れかかったので、今回は気を取り直して、旗ヶ岡駅に関連することをしっかり見て行くことにする。
地域歴史を探る中で、最も重要な文献は何か。
答えは人それぞれだが、私は古地図(あるいは絵図、写真)であると断言する。まったく主観が入らないのはあり得ないが、文章だけの表現よりも明らかに客観的な視座を与えてくれるだけでなく、百聞は一見にしかずと言われるように、読み取る力はそれなりに必要であるが、そこに盛り込まれた情報量は文章の比ではない。と能書きはともかく、早速旗ヶ岡駅周辺の古地図を見ていこう。まず、最初は東京逓信局編纂「東京府荏原郡大井町 平塚村」(大正11年8月25日第二版発行)より、旗ヶ岡駅周辺の一部を引用する。
この地図を見るポイントは、中原街道の道筋をたどることにあり、図左斜め下から右斜め上方向に向かって、途中大きく蛇行しながら図右上に抜けていく道路が確認できるが、これが中原街道である。また、これよりも図では太く書かれている道路は、大正期に入ってまったく新しく作られた道路で、今の荏原町商店街から旗の台商店街を貫く直線道路となっている。この道路は現在の大井町駅まで続くもので、当時の平塚村が計画した最初の近代的な道路である。しかし、それ以外はこの地図の初版(明治末期)とほとんど変化は見られない。
続いて、文化地図普及会「東京府下平塚町地図」(大正15年修正三版発行。なお、平塚町と称した期間は大変短く、すぐに荏原町と改称した)の旗ヶ岡駅周辺を見てみよう。
左上が緑なのは、こちらの手違いで原図はこうなっていない。大正11年の地図と比較すると、たった4年程度で道路が様変わりしていることが確認できる。これは、耕地整理組合によるいわゆる区画整理事業で道路が整備されたからで、換地はまだ済んでいないところも多かったが、道路区画は当然先行して行われたため、地図上は表現されることになる。新設道路も多いが、既存の曲がりくねった道を拡幅・直線化したものも多いことが確認できるが、中でも立会川の流路がほぼ直線(規則的な曲線)化したことが注目される。本図の注目は、やや左寄り下方部から右斜め上に伸びた直線があるが、これは「池上電車予定線」と図中に記されており、現在の東急池上線と完全一致するわけではないが、計画線として記載されている。一方、現在の東急大井町線の記載はこの付近では見られない。なぜなら、本図では「目黒蒲田電車予定線」は現在の東急目黒線の洗足駅から西小山駅手前で分岐し、現在の東急池上線荏原中延駅付近を通過して、大井町駅まで書かれているからである。
無論、この地図が表記する予定線は、大正15年の時点では既に正しくない。しかし、池上電鉄が計画路線の変更が多かっただけでなく、当時は目黒蒲田電鉄(その前身の荏原電気鉄道=田園都市株式会社の事実上の子会社)にしても計画線の変更は池上電鉄並みに多かったのだ。
と、横道に逸れそうなので軌道修正。続いては、小林編纂部実測「番地界入 東京府荏原郡荏原町全図」(昭和4年10月5日発行)の旗ヶ岡駅付近を見てみよう。ご覧いただければわかるように、前地図から約3年、その前の地図からでもわずかに7年しか経過していないが、その変貌ぶりには驚かされる。そして、中原街道の拡幅工事や旗の台駅の新設等、それなりの変化はあるが、基本的な都市構造は現在にいたるまでほぼ変わっていないことも確認できるだろう。
旗ヶ岡駅、そして東洗足駅の場所はご覧のとおりで、相当離れていることが確認できる。乗り換えのためには、図中「清水頭」(戦前なので右から読む)とある直下の道が、いわゆる乗り換えのための道路となり、この沿道に商店街が形成された。このあたりをご存じであれば、旗ヶ岡駅から東洗足駅まで歩くのが距離以上に辛いものがあると気付かれるだろう。清水頭という字名は伊達ではなく、ここはちょうど台地のてっぺん。東側に立会川が流れ、南西側も立会川の支流が入り込んでいるため、一度急な坂道を越えて、もう一度坂道を下らなければならないのである(池上線がうまく清水頭の台地を避けていると見れば、よりイメージしやすいか)。
以上、激変期の3葉の地図を比較してみると、この地域がいかに急速な都市化を経験したかがわかるだろう。この現象は、東京市周辺の町村でよく見ることのできたものだが、中でも荏原郡平塚村(のちの平塚町→荏原町)の発展は凄まじく、昭和7年(1932年)の東京市合併の際、単独町村で一つの区(東京市荏原区。なお、他には北豊島郡滝野川町が東京市滝野川区となった例があるのみだが、滝野川町は江戸期より発展していた)として成立したのがこの荏原郡平塚村だったのである(もちろん、最初は単独ではなく、ぎりぎりの段階まで荏原郡馬込町(現在の東京都大田区の一部)と合併する予定だったが、馬込町の反発が強く、実現することはなかった。この理由を語り始めると長くなるので、機会があればその時にでも…)。しかし、この発展も昭和20年(1945年)の米軍による空襲で灰燼に帰してしまうことになる。
ということで、旗ヶ岡駅ができるまでの駅周辺の状況を古地図を確認しながら眺めてみた。次回は、駅そのものの歴史について調べていく…か、あるいは池上電鉄の路線変更について調べていくかのどちらかを予定している。では、今回はここまで。
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