前回、「駅そのものの歴史について調べていく…か、あるいは池上電鉄の路線変更について調べていくかのどちらかを予定している」として、次回予告を行っていたが、過日、当Blogのコメント欄にて、鉄道マニア系の諸兄巷間にはないとされている旗ヶ岡駅の写真があるという情報を頂戴し、当該文献にあたってきた。そこには、しっかりと旗ヶ岡駅の写真が掲載されていたので、今回は予定を変更してこの写真のご紹介をさせていただく。なお、本文献は「昭和大学50年のあゆみ・写真集」(何か、背表紙は気のせいかもしれないが、こう書いていなかったような気がする…)で、旧旗ヶ岡駅を最寄りとしていた昭和大学の50周年を記念した作られた写真集で、しっかり作られている素晴らしいものだった。では、本文献から旗ヶ岡駅にかかわる部分をご紹介させていただこう。
絵解きによると、これは昭和16年(1941年)頃の写真で、旗ヶ岡駅のプラットホームにおける学生さんたちの集合写真だという。しっかり、「旗ヶ岡」と駅名が書かれているが、このホームは上りなのか下りなのかは定かでない(推測だが、上りホームではないかと思う。理由はこの後の写真でも確認できるが、下りホーム側には大した設備がないため)。旗ヶ岡駅は池上電鉄お得意の相対式ホームだったことから、もう一方のホーム側から撮影されたものと思われる。本来なら、学生さんたちが主役の写真だが、旗ヶ岡駅亡き今となっては学生さんよりも後ろの「旗ヶ岡」駅名表示の方が主役に見えてしまう。
絵解きによると、これは昭和17年(1942年)頃の写真で、旗ヶ岡駅の入口を撮影したものという。和服姿の女性らが見えるが、のんびりとしたというか閑散とした印象を受ける。
かなりぼけぼけの写真だが、絵解きにはいつ頃撮影されたものかは書かれていない。鉄道マニア系の方であれば、電車の形式や編成等の情報から何かヒントが掴めるかもしれないが、あいにく私はわからない。何となく、行き先表示が丸いというのが重要なヒントのような気がするが…。なお、最初の学生さんたちの写真が上りホームではないかとしたのは、上りホームに駅本屋があったほか、この写真からわかるように右側ホーム(下りホーム)は簡単な屋根しかなく、ちょうど写真では切れてしまっているが、この奥は学校敷地となっており出入り口等もまったくないことから推測したものである。
これも旗ヶ岡駅の入口。二つ上の写真よりもさらにひいた場所から撮影されているので、商店街の様子もよくわかる。ここは、現在でも砂利道となっている(おそらく公道でなく私有地だからだろう)ので、この写真を見ながら現地を確認すると、ほとんど雰囲気が変わっていないことに驚かされる。もちろん、駅舎がマンション等に変わってしまっているのだが、まぁ行けばわかる。ちなみに、この当時はこの道を直進して突き当たりを左折し、400メートルほど歩いて目黒蒲田電鉄東洗足駅まで行かないと乗換えられなかった。もし、現地を確認する際には、ここから東洗足駅のあったところまで歩いてみる(なお、駅のところまでは入れなくなっているので近くまでしかいけない)のもいいかもしれない。普段、旗の台駅で乗り換えされている方であれば、昔の苦労を知ることができるだろう。
というわけで、旗ヶ岡駅関連の写真を4枚ご紹介した。なかなかご覧になる機会は少ない(そもそも図書館等にも置いているところはほとんどない)が、昭和大学関係者であれば、いともたやすく手に取ることは可能だろう。ここに挙げた写真以外にも貴重な写真は多く、偉大な先人たちの歩みを振り返るのもいいのではないだろうか。と古老みたいなことをいいつつ、今回はここまで。
ありがとうございます!
嬉しかったのは、写真の解像度がとても上がったことで、周囲の風景がはっきりわかりましたね。私にはそういう技術がないので、改めて「こういう写真だったんだぁ~」と、感慨深かったです。感謝感謝です。
この写真集は、どちらでごらんになりましたか?昭和大学にあったでしょうか。もしそうだとしたら私は見はぐってしまいました。
ところでこの電車ですが、私も全く「鉄子」ではないので、推測ですが、デハ20形かな?と。池上電気鉄道が、大正15年に鉄道省から購入した木造車であり、最も車両数の多い形式だと、「街と駅 80年の情景」の37ページに書かれておりました。この写真の車両とそっくりなので。
投稿情報: りっこ | 2009/11/21 20:09
りっこ様、コメントありがとうございます。
写真集は、品川図書館をご紹介いただきましたが、昭和大学の方が自宅からは近いので(しかも昭和大学病院には入院経験もあったりする)、関係者を通じ見せていただいた次第です。実際に行っていないので何ともいえませんが、記念館にもあるそうです。
デハ20形というお話し。確かにシルエット的にそんな感じがします。デハ20から29まで全部で10輌あったとのこと。目黒蒲田電鉄に合併されてしばらくして、デハからモハ30系に改名されたようで、東京横浜電鉄沿革史512ページには「モハ30型」と書かれています。
投稿情報: XWIN II | 2009/11/22 18:55
木造国電電車マニア
写真有り難うございます。小生は近所の第二延山小学校に通っており遠足でよく利用しましたので当時の思い出が蘇ります。駅前商店街には同級生も何人かいました。旧中原街道とつながっていましたので結構繁盛していたようです。長原方向に最初の踏切でトラックと衝突事故を起こし小学生が犠牲となったことを思い出しました。木造電車もあっというまに鋼鉄製に改造され大井町線を走っていました。また長原寄りに折り返し用の亘線があり第3種直動式連動装置のポイントが地下化入り口の手前につい20年ぐらい前までのこっていました。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2009/11/26 11:07
木造国電電車マニア様、コメントありがとうございます。
貴重なお話しありがとうございます。やはり、資料だけでは片手落ちで実際に見て体験された方のお話しが重要なポイントだと改めて実感できます。
今後ともよろしくお願いいたします。
投稿情報: XWIN II | 2009/11/27 07:12
旗の台に住んでまして、昭和26年生まれです。
旗ヶ岡駅が旗の台に移転する年に生まれてます。
この辺の様子をWebサイトの「マイプレ品川」書くのに旗ヶ岡駅の写真が使いたいのですが、
駅舎の写真を使用してもよいでしょうか。
ご承諾願えれば幸いです。
宜しくお願いします。
投稿情報: 宗孝 | 2015/08/20 15:44