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2012/05/25

コメント

杉並区の由来が青梅街道の杉並木であったとは知りませんでした。小学生の頃多摩御陵参拝と高尾山に遠足に行った際に、高円寺辺りから急に武蔵野の風景となり沿線に杉林が散見されましたが、先生が之が杉並だと教えられましたが、物事はあまり鵜呑みにしない方が良いようですね。

馬橋の「西原」は公園の名前で残っています。
中央線は阿佐ヶ谷駅・高円寺駅の前に馬橋駅を作る計画もあったようで、
そうなってたら残った地名も変わったことでしょう。

東本村は電柱の番号で見たことあります。
今回初めて由来を知りました。

「矢倉」「天王」「尾崎」は善福寺川の橋に名前を残しています。
「尾崎」は杉二小の校歌に「武蔵野の尾崎の丘」と残っていますが、
あの場所を「尾崎の丘」とはもう言いませんね。

「田端」が「西田端」「東田端」にならず「西田町」「東田町」になったのは不思議です。

Web世界では、十分中世といって差し支えないであろう7年前の’古い記事にコメントありがとうございます。
ご教示いただいたように、当時の地名はその当時の様々なものに「保存」されていることを実感します。
田端については、当方もまったく経緯は不明ですが、東京市合併の際、様々な町村で改名されているものも多いので、東京市らしい名前にしたとなるのでしょうか。

西田端が長いので、西田と略されるのは自然かもしれない。
※阿佐谷北・阿佐谷南に、「ヶ」が取れたのと同じ。
そして村から町に昇格したので、西田町になった。
成田西・成田東も、成田空港とは関係なく成宗と田端の間である。

その名残として、西田小学校・西田商店街があるね。
西田商店街=西田端の集落があった場所で、西田町の中心だった。
電車通勤の時代になると、駅から遠い西田商店街は寂れてしまった。

それにしても阿佐ヶ谷村の杉並が、区の名前になったのは面白い。
阿佐ヶ谷区だと、高円寺が反対するからね・・・
杉並だとピンポイントで役所の場所だし、杉並木のイメージも良かった。

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