東京府荏原郡における明治期の町村制施行時の変遷過程シリーズ第6回目となる今回は、碑衾村をとりあげる。これまでのように、まずは第一次案から見ていこう。
衾碑文谷村 = 衾村(飛地字谷鷺草を除く)+ 碑文谷村
碑衾(ひぶすま)というのもご存じない方からすれば珍名、あるいは奇名にしか見えないが、第一次案の衾碑文谷という単純に並べただけというのもヘンな漢字…いや感じだ。そして、衾村と碑文谷村の組み合わせも今日的視点からすれば不自然でも何でもないのだが、明治22年(1889年)当時では異質な組み合わせといってよかった。なぜなら、
- 江戸期には、衾村は世田谷領、碑文谷村は馬込領と所管が異なっていた。
- 明治初期の大区小区制においても、衾村は第七大区第六小区、碑文谷村は第七大区第五小区と異なっていた。(明治6年3月以降)
- 第七大区第六小区を構成していた村々のうち、衾村以外は今日の世田谷区を構成しており、衾村だけ外された格好となっていた。
というように従来の考え方からすれば、どうしてこのような組み合わせとなったのかという疑問があったはずだ。しかし、第二次案でも組み合わせは変わることはなかった。
衾碑文谷村 = 衾村(飛地字谷鷺草を除く)+ 碑文谷村
第一次案と変わらず。なお、ここで飛地字谷鷺草についてふれておくと、場所は概ね現在の世田谷区奥沢六丁目と同七丁目の境界のうち、玉川聖学院付近にあたる。察しのとおり、現在の目黒区との境界線からそう遠くない場所ではあるが、間に九品仏川流域を占める下沼部村飛地を挟んでいたため、この飛地共々、玉川村(のちの世田谷区)に編入されたわけである。また、鷺草といえば九品仏(浄真寺)に今もわずかに残っているが、江戸期以前では鷺草がこの一帯に咲き誇っており、それが字名として付けられていたのだ。
続いて、最終案を見てみよう。
碑衾村 = 衾村(飛地字谷鷺草を除く)+ 碑文谷村
衾碑文谷村の名称は、碑衾村へと改められる。さすがに漢字4文字村名では長すぎるという判断が働いたのか、あるいは碑文谷の方が衾の後では納得いかないという意見でもあったのか。間違いなく言えることは、衾碑村(ふすまひむら)よりは碑衾村(ひぶすまむら)の方が読みやすいということか。そして、施行時においても変わることなく、
碑衾村 = 衾村(飛地字谷鷺草を除く)+ 碑文谷村
となった。最終的には、2村合併という構成は変わることなく、採用する合併村が衾碑文谷から碑衾に変わっただけで大きな変化はない。とはいえ、この組み合わせは水と油とまでは言わないが、異質な組み合わせであることは確かである。実際に碑衾村(町)となってからも大字碑文谷と大字衾は独自の動きを見せることが多く、村役場も大字碑文谷の区域ではあったが、限りなく大字衾に近い両大字の中間点に設置されることとなる。これは、東京市編入時に目黒町と合併して目黒区となったときも、目黒区役所の位置は両町の中間点に設置されたことから見て、合併はするが独自性は維持するという頑なさを伺わせる。
ところで、衾碑文谷でも碑衾であっても、ご存じない方にとっては読み方はもちろん、漢字もわかりにくい(特に「衾」の字)。このため、昭和になって新興住民が増える中、この難しい「碑衾」という町名をわかりやすいものに変えようと、碑衾町自らが音頭をとって懸賞付きの新町名募集を行うこととなる。数多の応募作の中から、まったく地域の歴史を無視した「朝日」という名称が一等となり、これを採用することなったのだが、時は昭和6年(1931年)。まさに東京市編入の議が沸き起こっていたことに加え、いざ「朝日」町に変更するという段階になって町名改称反対運動が巻き起こり、うやむやのうちに東京市に編入、目黒町と合併して目黒区が成立し、碑衾の名前は消えた。新町名の「朝日」は目黒区の町名にも採用されることなく忘れ去られていったのだった。
当時の碑衾町役場が新町名募集として、懸賞までつけたことを知らしめるポスターからして「朝日」を誘導するようなものだが、「明るい 感じのよい 町名を」というリード文と、あとに続く「な(成)るべく土地に因ん(む)で」を比較すれば、後者が軽く見られている感が強い。一等が「朝日」となるのもなるべくしてなったということかもしれない。
結局のところ、「朝日」はどこにも残ることなく多額のコストをかけたイヴェントとしての徒花として終了。碑衾のうち、碑文谷は目黒区の町名として生き残り、住居表示後の現在まで引き継がれている。「朝日」町反対運動の発祥である碑文谷地域の面目躍如となるだろう。一方の衾は、目黒区成立後は衾町として引き継がれたが、住居表示の際、八雲に置き換えられる。振り返れば、衾村に最初にできた小学校も衾と冠称せずに八雲を名乗ったところで、地元からも衾には愛着がなかったとなるのだろうか。
といったところで、今回はここまで。
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