東京府荏原郡における明治期の町村制施行時の変遷過程シリーズ第7回目となる今回は、大森村をとりあげる。これまでのように、まずは第一次案から見ていこう。
大森村 = 大森村
大森村は、江戸期から明治5年(1872年)まで3つに分かれていた。西大森村、北大森村、東大森村である。お互い飛地が散在していたが、これを統合して大森村となったために、いわゆる大村となり、他村との合併はなく単独村で起立する案となった。なお、明治9年(1876年)に大森駅が開業するが、当時から大森村内ではなく新井宿村内にあり、しかも直線距離で最も近いところから測っても大森村と大森駅は1キロメートル以上離れていた。現在の住居表示では、駅東口側を大森北一丁目としているが、単なる後付けであり、駅の場所は大森村とは無関係である。だが、大森の知名度は江戸期から圧倒的であり、浅草海苔の名産地として品川共々著名であった(ちなみに羽田沖は明治に入ってからである)。さらに和中散と呼ばれる薬でも大森は知られていたので、駅所在地の新井宿、近隣の大井や不入斗などには大変申し訳ないが、知名度の差は圧倒的だったのである。
続いて第二次案だが、大井村の回でふれたように第二次案は町村会に諮問したもので単独村は対象外なのだが、大森村には第二次案はあった。理由は、単独村での起立ではなくなったためである。
大森村 = 大森村 + 不入斗村
何と、隣接する不入斗村を合併相手としたのである。大雑把に言うと、不入斗村は現在の大田区大森北エリアに概ね相当するので、ここが大森村になるということは先ほどふれた大森駅が、大森村に極めて近接する格好となる。つまり、ほぼ名実共に一致するようになるわけだ。無論、それを狙ったものかどうかはわからないが、現在の住居表示における大森エリア(東西南北中本町)を先取りするようなもので悪くはない。だが、もともと不入斗村は第一次案では新井宿村と合併することとなっていたが、新井宿村は第二次案では池上村と合併することとなり、合併相手がなくなったために大森村に付く形となったのだった。
そして最終案。
大森村 = 大森村
結局、第一次案に戻った。不入斗村は再び新井宿村と合併し、名称も入新井村とすることとなった。結果、大森村は単独村で起立する形に戻ったのである。そして実際の施行においても、
大森村 = 大森村
となった。大森の名は知名度が高かったとふれたが、人口も品川町に次いで多く、明治30年(1897年)に荏原郡で二番目の町制施行となった。村から町としては荏原郡最初である。そして、昭和7年(1932年)に東京市に編入される際は、近隣の入新井町、池上町、馬込町、東調布町と合併して東京市大森区となり、ここでも大森の知名度が強力なことを示した。ただし、区役所の位置(もとの大森町役場で現在の大森警察署の位置)があまりに東に偏りすぎていたため、大森区の中心に区役所を移転する話が起こり、戦前に用地を確保していたが戦時中で移転がかなわず、戦後になって大田区となってようやく区役所の移転がなった(現在の大田区中央二丁目。今の大田文化の森)。しかし、このようにして決まる区役所の位置というのは、目黒区の例と同じように交通の便は決してよくない。このため、区役所は再度移転し、現在は蒲田駅東口に落ち着いている。
で、話を戻して大森の名は区の名前としてはもちろん、大森区成立時の町名としても旧大森町だったところのほとんどが大森一丁目から九丁目として継承され、住居表示においてはさらにエリアを拡張し、大森駅東口側まで大森の名が町名についた。ここでようやく名実共に、大森駅の場所が大森(大森北)という町名と一致するようになったのである。といったところで、今回はここまで。
旧東海道は東海道線からは離れていますが、機関車が吐き出す火の粉を沿線の住民が嫌った関係であると聞いていますが、時代を更に遡れば、池上通りが先代の東海道ですので、大森中央もその意味では偶然ですが合理性があります。ただバブルの産物の蒲田のビルに区役所が更に移転したので、以前の賑わいは無いようなきがします。唯一のこっているものと言えば代官の木原山ぐらいでしょうか。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/01/31 19:00
先祖代々、大森にいます。大森駅は、大田区と品川区に跨っています。
明治の人達は鉄道を嫌ったようです。本来、大森駅は1キロほど蒲田より二作られる予定でしたが、漁民が反対したと大田区史に書いてあります。
投稿情報: 眞形敦雄 | 2021/09/10 14:26