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2013/01/29

コメント

山手線に目黒と目白の二つの不動尊の名前が付いていることは、明治に成ってもその重要性が残っている証しでしょうか。

目黒、ということで、やや強引ですみません。。

昨日、洗足田園都市周辺を散策してまいりました。
いやぁ~~~
100坪~150坪単位の、元「田園都市」のお屋敷が、恐らく代替わりにより、どんどん更地となり。そこに15坪~20坪の、鉛筆のような3階建ての1戸建てが、ぎゅうぎゅうに建てられようとしています。
実家、旗の台六丁目周辺もそうですが、今が、代替わり→土地売却→土地細分化の、そういう時期なんでしょうか。小さな家の林立があちらでもこちらでも見られます。
そうかと思うと、誰も住んでいない、陋屋も。。
少子化、そして相続税の上昇
田園都市の崩壊の足音を聞くようでした。

はじめに。
確かに目黒つながりと言えなくもないんですが、洗足は目黒村ではなく碑衾村にあたるので、できればここではなく碑衾村の方につけていただいた方がありがたかったです。

さて、当然、私の見解に過ぎないのですが、既に洗足田園都市は崩壊した後(跡)だと見ています。田園調布はまだ健在ですが、洗足は見る影もないですね。もう歴史扱いにしていいと考えています。
危機、というか崩壊過程は5段階にわたると考えます。

1.初期コミュニティの崩壊(戦前期)
 まだ駅もできていなかった頃、そして都市施設もほとんどなかった頃は、フロンティアスピリットにあふれていた人達が団結して「街」をつくっていった。しかし、都市化が進んで隣近所との交流も疎遠になり、洗足会が単なる互助組合化していき、行政区画も3分割のまま。これでは…。
2.戦災による被害と戦後の混乱による分断
 田園調布も戦災を受けましたが、洗足の比ではありません(西小山や中延あたりに比べればはるかにましですが)。そして、軍属の多くが土地を持ち続けることができなくなり、最初の大きな住民入れ替えが起こります。当然、コミュニティは凋落していきます。
3.巨大マンションの登場
 洗足田園都市エリアは、今も多くは第一種住居専用地域であり、10メートルの高さ制限がかかっています。にもかかわらず、どう見てもそうではない建物がかなりあります。これは昭和40年代に建てられたもので、良好な住宅地を見事なまでにぶちこわしています。その後、日影規制も生まれ、そのようなとんでも建物はできていませんが、できてしまったものは既存不適格として今も健在です。街並みを破壊してしまうと取り返しの付かない好例です。ちなみに田園調布は田園調布会が頑張ったこともあり、そのようにはなっていません(環八通り沿いを除く)。
4.土地高騰による細分化
 巨大マンションが作られたのは建築技術の向上もさることながら、土地の高騰による販売の困難さもあります。相続による物納(土地切り売り)なども進み、高く建てられない以上は細分化するしかなく、世代交代もあって昭和40年代には細分化も同時進行しています。
5.三世代目相続とバブル崩壊前まで
 これは田園調布でも同様ですが、いよいよ三世代目の相続の頃にはバブル経済絶好調期にもあたっており、土地の細分化はさらに進行しました。この頃にはコミュニティもへったくれもなく、静かに衰退を待つばかりといえるでしょう。洗足会館も既になく、現在起こっていることは洗足田園都市の崩壊ではなく、既に別のものとなった形態の変化に過ぎないと思いますね。

詳しいご解説、ありがとうございます。また、項目違いのところに書いてしまい、申し訳ありません。
私が、足しげく実家のある旗の台六丁目に通い、周囲散策できるようになったのが、ごく最近なものですから、全くの「浦島太郎」状態なのだと思います。
ただ、一つ思うことは、土地の細分化といっても、旗の台在住友人が、そこに家を建てた10年ほど前は、30坪を単位としたものが多く、100坪の家が消えると、3軒の一戸建てが建つような感じでした。今でもそういうところもありますが、売り出し価格は「億」を超えており、何とか一般人の手が届く一戸建てというと、15坪で、6,000万円内外の価格帯のようです。(それでもすごいと思うのですが)
その面積だと、建物は没個性で、皆同じような形で、ぎっちり建っています。
私の思い出の中の洗足と、随分様変わりしたなあと思うと同時に、100坪程度の土地が、最近売り出され方が加速したのも特徴です。知人が今一戸建てをこの辺りで探しているもので、便乗で散策させてもらい、改めて驚きました。
田園調布は、田園調布会が頑張っているとはいうものの、もうすぐ相続税の変更もあるし、果たして、あれをどうやって維持していくのか。私てきには注目しております。

そして、この分割は人ごとではなく、やがてわが実家とて、何分割になるかわかりませんが、変わりゆく運命なのは間違いないのです。寂しいのですが。

こちらこそすいません。洗足田園都市は3つの行政区画をまたいでおり、このシリーズで言えば碑衾村のほか、平塚村(現 旗の台六丁目はここに相当)、馬込村もありますからね。
さて、想(思)い出は美しいものですが、それが維持されるかどうかは美しくない現実です。田園調布にしても、世代交代の時には親族継承ではなく、転売継承が多いですから。よって、田園調布のコミュニティ崩壊は、土地の細分化ではなく人の入れ替えによって危機に晒されています。
しかし、これを維持しようとすれば、所有者にすべての努力が求められます。街並み維持のための公的支援の声も聞こえますが、個人が住むための絶対的な所有権・占有権が行使される空間に公的支援などあり得ません。必ず上がってくるのは「金持ち支援」の声です。確かに良好な住宅に住んでいない・所有していない人からすれば、なんで自分たちを差し置いて金持ちを支援しなけりゃならんのか、というわけです。
結局のところ、明治政府の初期方針によって時代的にやむを得ない側面が大きいのですが、土地の私的所有を大きく認めてしまったことがすべての元凶です。まぁ、王政復古したからといって、公地公民というのはありませんので(戦前はまだ天皇陛下からお預かりした土地という観念はありましたが戦後は…)。

XWIN II様
相続税対策と称してバブル期に銀行から借り入れをして賃貸マンションを建てた人々が、様式の古さも手伝ってテナントの確保に苦しんでいる一方で、最近廃屋同然の空き家が増加して、治安や防災面で問題が生じています。個人の財産なの勝手に入れば住居侵入になり、役所も苦慮しているようですが、板橋区では所有者も不明な建物を取り壊す条例を制定することを検討しているようです。当然固定資産税も納入されていないでしょうが、法制面では留置権はあるが、処分権は無い状態なのでしょうか素人の私には分かりませんが、近所にもそんな住宅が増えだして不安です。少子化で人口が減って行くのを食い止めることは最早不可能ですので早急な対策が必要であると考えます。

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