前回、前々回、前々々回の続きとなる今回は…って4回目とした方がよいか(苦笑)。それはともかく、今回は平塚村について見ていこう。まずは、第一次案から。
戸越村 = 戸越村 + 上蛇窪村 + 下蛇窪村 + 中延村 + 小山村 + 谷山村字平瀧
この時点では平塚村ではなく、合併後の村名として戸越村が採用されていた。おそらく合併対象の主要5村のうち、戸越村が有力だったことからだと見るが、これまで見てきた品川町(南品川町)や大崎村とは異なり、第二次案では変更されてしまう。
平塚村 = 戸越村 + 上蛇窪村 + 下蛇窪村 + 中延村 + 小山村 + 谷山村字平瀧
戸越村は平塚村へと改称。第二次案は町村会への諮問であり、被合併村間での調整が主体であったので、おそらく戸越村以外から合併村名の変更が強く示唆され、その結果が有力5村の村名とはまったく無縁の「平塚」が案として浮上した。平塚は、中原街道沿いにあった旧跡の平塚(現在の品川区荏原四丁目6番)に因んだ地名に由来する。戸越村ではなぜだめだったのか、という理由の一つとして考えるのは、江戸期においては戸越村のみ品川領で、その他4村(飛地の谷山村も含めれば5村)はすべて馬込領だったということがあげられる。代官支配から20年程経過していたとはいえ、まったく影響がなかったとは言いがたいのではないだろうか、と。なお、谷山村字平瀧とは、前回の「大崎村」編でもとりあげたように谷山村の飛地である。
ちょっと横道に逸れるが、谷山村は地域の有力村によく見られるようにいくつもの飛地が散在しており、現在の大崎郵便局あたり、立正大学あたり、そして品川区荏原三丁目1~3番あたり(ここが谷山村字平瀧に相当)と大きく3つにわかれていた(江戸期以前の村々は各地に飛地があるのが当たり前だった)。そのいずれもが一定の大きさを持っており、原則飛地を禁じた市制町村制の区割り・編成の中で悲劇を生むこととなった。谷山村の場合、最初にあげた2か所は合併後の大崎村へ統合されたが、残る1か所は間に戸越村を挟んでいたので、大崎村に統合するのではなく平塚村へと統合されることとなったのである。このような事例は、今回以降でも様々なところでご紹介できるだろう。
続いて、最終案を見てみよう。
平塚村 = 戸越村 + 上蛇窪村 + 下蛇窪村 + 中延村 + 小山村 + 谷山村字平瀧
第二次案とまったく変わらず。そして施行でも、
平塚村 = 戸越村 + 上蛇窪村 + 下蛇窪村 + 中延村 + 小山村 + 谷山村字平瀧
組み合わせは第一次案から変わらず、合併後の村名だけが平塚村となった。だが、せっかく決めた新村名も神奈川県の平塚と紛らわしいとなって、町制施行して間もなく平塚町から荏原町に改称した。当時は既に荏原郡は郡役所もなくなっており、郡自体が有名無実化していたのでその郡名を拝借した。荏原町は東京市編入時に単独で東京市荏原区となったが、太平洋戦争中に米軍機による空襲で大きなダメージを受け、荏原区単独では存続困難となり、隣接する品川区と合併し品川区の一部となった。
広域地名として、平塚→荏原→品川と変遷したが、被合併村名のうち戸越、中延、小山は現在も町名として生き残っている。一方、上・下蛇窪は東京市編入前に新興住民などから嫌われ、上・下神明と改称されてしまい、その神明も戦前のうちに消滅してしまう(辛うじて東急大井町線の駅名に下神明が残る)。また、かつて広域地名だった平塚や荏原は町名として生まれ変わっており、地名の変遷は多い方だといえる。といったところで、今回はここまで。
私の生家は、町名も番地もこれまで何回も変わり、変わらなかったのは昔法人格を有した町会名だけです。飛び地は、雪谷大塚の古墳のあるところが鵜の木飛び地、あるいは昔の池上洗足町の道々橋飛び地のように、代官が支配した天領ですので恐らく旗本の知行地の関係かもしれませんね。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/01/28 10:46