では、引き続き今回も東京府荏原郡における明治期の町村制施行時の変遷過程について。今回は大崎村をとり上げる。まずは、第一次案から。
大崎村 = 上大崎村(一部は芝区に編入)+ 下大崎村(一部は芝区に編入)+ 谷山村(飛地字平瀧を除く)+ 居木橋村 + 桐ヶ谷村 + 白金村の一部(字長者丸)
大崎村は品川町と同じく東京市(となる15区のうちの芝区)に隣接しているため、荏原郡内での異動以外に東京市との異動があるので、やや複雑な格好となっている。ただし、基本線は合併後の大崎村へ名称を継承することになる上大崎村と下大崎村に加え、谷山村、居木橋村、桐ヶ谷村の5村に荏原郡白金村の一部が加わる形で、これらは施行時まで変わることはない(細かい異動は除く)。
なお、白金村は、隣接する荏原郡今里村を明治12年(1879年)4月22日に合併したほか、芝区のうち白金上三光町、白金下三光町、白金錦町も合併していた。この異動がさらに明治22年(1889年)の市制町村制の施行に合わせ、入り繰りを複雑化する遠因ともなっていた。というのは、市制町村制の際、白金村の大半は東京市芝区に編入されることとなったからである。この第一次案では「白金村の一部(字長者丸)」と記したように、白金村のうち字長者丸(現在の品川区上大崎二丁目に概ね相当するところ)だけが大崎村に編入とされた。つまり、10年前に芝区だった荏原郡白金村所属の白金上三光町、白金下三光町、白金錦町は、再び芝区に復帰すると同時に東京市に属することとなり、字長者丸以外の旧今里村を含む白金村のすべてが同じく芝区に編入され、荏原郡から東京市へと所属変更となったのである。さらに、隣接する上大崎村と下大崎村の一部までもが、東京市に編入とされたのだ。
続いて、第二次案を見てみよう。
大崎村 = 上大崎村(一部は芝区に編入)+ 下大崎村(一部は芝区に編入)+ 谷山村(飛地字平瀧を除く)+ 居木橋村 + 桐ヶ谷村 + 白金村の一部(字長者丸)+ 北品川宿の一部(目黒川以南、鉄道線路及び碑文谷道以北)
ここで新たに追加となったのは「北品川宿の一部(目黒川以南、鉄道線路及び碑文谷道以北)」である。このキーワードに見覚えがあると思うが、前々回の品川町をとり上げた際、同様のものが出てきている。第二次案の品川町(南品川町)には「目黒川以南、鉄道線路及び碑文谷道以南」とあるように、目黒川を自然境界として鉄道線路及び碑文谷道を境界として南を南品川町、北を大崎村へと分割したわけである。第二次案では、北品川宿は東京市芝区、荏原郡南品川町(品川町)、同郡大崎村へと三分割されることとなったのだった。
続いて、最終案である。
大崎村 = 上大崎村(一部は芝区に編入)+ 下大崎村(一部は芝区に編入)+ 谷山村(飛地字平瀧を除く)+ 居木橋村 + 桐ヶ谷村 + 白金村の一部(字長者丸)+ 北品川宿の一部(目黒川以南、鉄道線路及び碑文谷道以北)
ご覧のように、第二次案との違いは見られない。だが、このまま施行とは品川町の例から明らかなようにならなかった。
大崎村 = 上大崎村 + 下大崎村 + 谷山村(飛地字平瀧を除く)+ 居木橋村 + 桐ヶ谷村 + 白金村の一部(字長者丸及び字今里のうち元増上寺下屋敷)+ 北品川宿の一部(目黒川西南のうち鉄道並びに碑文谷道以北)+ 芝区白金猿町78~111番地
変更となったのは、東京市との境界の見直しに関するところで、上大崎村及び下大崎村から芝区への編入はとりやめとなり、白金村からは第一次案からあった字長者丸に加え、字今里(旧今里村)のうち元増上寺下屋敷(現在の品川区上大崎一丁目の隆崇院など寺が集中するエリア)が追加された。また、北品川宿の一部も見直しがされた。そして極めつけが、明治以降一度も荏原郡に所属したことがなかった白金猿町のうち78番地から111番地(現在の港区と品川区の境界線から桜田通りを五反田方向に進み、雉子神社手前あたりまでの一帯)が芝区から大崎村に異動となったことである。最終的に大崎村となるエリアから東京市へ編入するところはなくなり、かわって東京市となる芝区から編入することとなった。これは、東京市の領域を増やす方向から減らす方向(現状維持)へと働いた結果といえるだろう。
とはいえ、大崎村を構成する基本線は最初にふれたように、上大崎村、下大崎村、谷山村、居木橋村、桐ヶ谷村の5村に白金村等から一部合併した形であることに変わりはない。
さて、大崎村だが、主要被合併村のうち有力な上・下大崎村より名称を継承したが、大崎という名前自体はそれほど著名とはいえない。明治18年(1885年)に村内に日本鉄道が開通し(現在のJR山手線にあたる)、村内に駅(停車場)が開業したがそれは目黒と命名され、大崎駅の開業は明治34年(1901年)と遅れた。昭和7年(1932年)に東京市に合併する際は、隣接する品川町と大井町とで品川区を構成し、大崎の名は品川区の町名として引き継がれる。だが、大崎駅より後に開業となった五反田駅は、戦前では池上電気鉄道線(現東急池上線)が乗入れ、戦後は都営地下鉄浅草線(1号線)が乗入れターミナル駅となって、住居表示制度のもとでは大崎と命名された町名の多くが五反田を称する町名に置き換えられた。埼京線・りんかい線の乗入れや大崎ニューシティーの誕生によって大崎も脚光を浴びるようになってはきたが、五反田と比べると悩ましいところではある。
といったところで、今回はここまで。
XWIN II 様
私の子供の頃の大崎駅は、工場街の真ん中で、戦時中に明電舎に勤労動員で行ったことがありますが、寂しい所でした。大崎町役場はかっては行政機関としては城南地区の重要な拠点であり、私は荏原に長く住んでいましたが、荏原地区は郵便網や電話網の集中局となっていました。現在行政機構はJRの大井工場の一部に統合されました。ご説のとおり大崎地区も再開発で全く様相が変わり、A3以上の複写やプリントアウトを行う時はゲートシティーのなかのフェデックスを利用しますので、ときたま大崎駅で下車しますが、洒落たオフィス街に変貌しています。品川経由での新幹線や京急の羽田へのアクセスが大幅に改善されましたので、将来有望であるような気がします。
以前取引先の外人が昔の白金猿町にマンションを購入しましたが、港区との境で固定資産税の納付書が品川区と港区の双方から来たり、行政手続きも双方の区役所を経由しなければならないので厄介でした。
紆余曲折の余波として、北品川の一部が大崎局の郵便番号になっている理由が貴殿の説明で分かりました。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/01/27 13:33
XWIN II様
追伸
大崎駅の役割は、日清戦争のとき、現在の千駄ヶ谷駅から分かれた支線を経由して青山練兵場から甲武鉄道で新宿にむかい、機関車を付け替えて日本鉄道を利用して広島に向かう時に、国有鉄道で大崎から現在の大井間の短絡線を利用するために大崎駅が設けられたとのことです。この面倒が国有化の動機の一つであったようです。この短絡線は電車基地が設けられる迄単線で残っていた様に記憶して居ます。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/01/27 13:46