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2013/01/27

コメント

XWIN II 様 
 私の子供の頃の大崎駅は、工場街の真ん中で、戦時中に明電舎に勤労動員で行ったことがありますが、寂しい所でした。大崎町役場はかっては行政機関としては城南地区の重要な拠点であり、私は荏原に長く住んでいましたが、荏原地区は郵便網や電話網の集中局となっていました。現在行政機構はJRの大井工場の一部に統合されました。ご説のとおり大崎地区も再開発で全く様相が変わり、A3以上の複写やプリントアウトを行う時はゲートシティーのなかのフェデックスを利用しますので、ときたま大崎駅で下車しますが、洒落たオフィス街に変貌しています。品川経由での新幹線や京急の羽田へのアクセスが大幅に改善されましたので、将来有望であるような気がします。
 以前取引先の外人が昔の白金猿町にマンションを購入しましたが、港区との境で固定資産税の納付書が品川区と港区の双方から来たり、行政手続きも双方の区役所を経由しなければならないので厄介でした。
 紆余曲折の余波として、北品川の一部が大崎局の郵便番号になっている理由が貴殿の説明で分かりました。

XWIN II様
追伸
大崎駅の役割は、日清戦争のとき、現在の千駄ヶ谷駅から分かれた支線を経由して青山練兵場から甲武鉄道で新宿にむかい、機関車を付け替えて日本鉄道を利用して広島に向かう時に、国有鉄道で大崎から現在の大井間の短絡線を利用するために大崎駅が設けられたとのことです。この面倒が国有化の動機の一つであったようです。この短絡線は電車基地が設けられる迄単線で残っていた様に記憶して居ます。

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