« 誤りの拡散・再生産──「データブック 日本の私鉄」を例に | メイン | 東京府荏原郡における明治期の町村制施行時の変遷過程「品川町」編 »

2013/01/22

コメント

荏原郡がこのような複雑な経緯で変更されて行ったことは知りませんでした。次回を楽しみにしています。イメージを重んずるのは今も昔も変わりませんが、松沢などは古い名前ですが、例の問題で住民の強い意向で電話局を除いて全く抹殺されています。

恥ずかしながら、このシリーズ、今まで気が付きませんでした。
これまた勉強になります。
私は当面現品川区部分を中心にみておりますが、品川、大井、大崎、平塚でいくと、明治22年改正でそれまでの町村が分割されたのは、
①芝区白金猿町の一部(旧品川台町部分)を大崎村へ編入、
②荏原郡白金村の一部(字長者丸、増上寺下屋敷)を荏原郡大崎村に残し、その他は芝区へ編入、
③荏原郡谷山村の飛地の一部(字平滝)を平塚村へ、その他は大崎村へ編入、
④荏原郡北品川宿の一部(目黒川南西、鉄道・碑文谷道北)を大崎村へ編入、その他は品川町、
の4カ所で、残りは全て旧町村がそのまま大字となっているかと思います。
③は飛地の一部解消ですね。
④は理由が分からなかったのですが、記事を拝見して理解が進みました。北品川宿側は異論を唱えなかったのでしょうか?(このあたりは耕地ばかりで人家がなかったのかもしれません)
①は「品川台町」の変遷を解析する必要がありますが、「品川台町」は、元は北品川宿の枝郷だったところで、明治期以降も明治11年に芝区に位置付けられ、明治12年に白金猿町に合併されるまでは、基本的に「郡部」として位置付けられていたようです。
問題は、②で、字長者丸、増上寺下屋敷以外は全て芝区(市部)へ位置付けられた理由を勉強していきたいと思います。ご案内のように明治11年に区部と郡部が整理され、翌年の明治12年にすぐさま白金村の大合併(荏原郡の白金村、今里村、芝区の白金上三光町、白金下三光町、白金錦町が合併し、「白金村」として荏原郡に位置付け)があり区部と郡部の線引きが修正され、さらに、明治22年の市部(区部)と郡部の再見直しとなっているので、複雑そうです。
何かヒントや御指摘があればぜひご教示ください

コメントありがとうございます。
時間があればこのあたりの分析も行っていきたいところですが、事実上手つかず状態です。
さて、江戸から東京となって明治22年の市制町村制までの20年ほどの間に、どのような変遷が行われたのか。最上位レベルでは天領の廃止、上位レベルでは廃藩置県、中位レベルでは市郡間異動、下位レベルでは町村間異動(飛地解消も含む)が複雑怪奇に入り交じって、なかなか分析視角が定まりません(というよりは下手に定めない方がいいと見ます)。
お尋ねの荏原郡絡みの異動については、市域拡張と江戸期における朱引き内外との綱引きが大きいですね。警察権力との兼ね合いも当然見ていかねばなりません。

地図マニア様
4.の北品川宿の一部大崎村への編入が先日このブログで取り上げた郵便番号の問題と関係があると解釈しました。

コメントの確認

コメントのプレビュー

プレビュー中です。コメントはまだ投稿されていません。

処理中...
コメントを投稿できませんでした。エラー:
コメントを投稿しました。コメントは記事の投稿者が承認してから表示されます。 さらにコメントを投稿する

入力された文字と数字は画像と一致していません。再度入力してください。

最後に、下の画像の中に見える文字と数字を入力してください。これはプログラムを使ってコメントを自動的に投稿するのを防ぐために行われています。

画像を読み取れない場合は 別の画像を表示してください。

処理中...

コメントを投稿

コメントは記事の投稿者が承認してから表示されます。

アカウント情報

(名前とメールアドレスは必須です。メールアドレスは公開されません。)

2024年1 月

  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31