前回の続きです。
前回までの三回にわたって、現在の東京都渋谷区における旧渋谷町の領域について戦前まで確認してきたわけだが、大きな変更は1928年(昭和3年)に施行された大字名及び境界変更であることに疑いはない。一方、戦後においては何といっても住居表示制度に伴う改変が最大級のものだが、渋谷区全体で見れば必ずしもそうとはならない。旧渋谷町が東京市に合併される前に、事実上の大字・小字廃止(位置づけとしては大字新設だが実態は市における町丁と同じ扱い)に踏み切ったように、住居表示制度開始前に地番変更にかかわる町域変更が成されているためである。
渋谷区において顕著なのは、旧代々幡町のうち幡ヶ谷地域で、1960年代はじめ(昭和30年代中盤)頃に大きな地番変更が実施された。これは市街化が遅れていた(人口稠密云々でなく区画整理的な意味合い)ことから、渋谷区成立(東京市合併)時においても明治初期の地番を事実上そのまま継承していたため、戦時中の米軍機空襲による市街地破壊を経て旧来の地番では対応が困難となったことによる(国税・地方税徴収権の問題に関わる)。
旧渋谷町では、既に昭和初期に地番整理は行われていたが、決定的に幡ヶ谷地域と異なるのは、きっかけは戦時中の米軍機による空襲であることに変わりはないが、その後に区画整理事業を行ったためである。旧渋谷町の区域において、最も早くそれが完了したのは恵比寿駅周辺地区であり、これにより地番整理を行う必要性が整ったからにほかならない。
では、ここで恵比寿駅周辺地区のみに特化した変遷を跡づけてみよう。
まずは明治中期から昭和最初期(1927年=昭和2年)までの大字・小字である。おおざっぱにだが、現在のJR恵比寿駅は上図中の四反町と広尾向の境界やや下方にあたる。
これが市街地化の進展に伴い、街区制と街路制を併用した1928年(昭和3年)の改正により、次々と新しい名称が登場するが、恵比寿駅に因む名称はまだ恵比寿通一丁目及び二丁目のみに過ぎない。そして、1932年(昭和7年)に東京市に合併し、東京市渋谷区となった際、原則大字名に「町」が尾記され、○○通とあるものはそのまま大字から町になった。
これが先にふれたような空襲による市街地壊滅とその後の区画整理事業によって、大きく道路パターンなども改められたことなどにより、恵比寿駅周辺の町名及び地番変更が施行される。この時は旧渋谷町大字由来の町名の一部のみが実施されたことで、消滅あるいは一部分・大部分の町域が残る不格好な形となった。
桃色が新設町、濃い緑色が新設町域に一部あるいは大部分が奪われた町、薄い緑色が変更なしと色分けした。注目は、やはり新設された町名にすべて「恵比寿」が冠せられたことになる。そして消滅したのは、向山町、公会堂通、丹後町、下通四丁目(これにより下通は1,2,3,5と変則的な丁目となる)の4町を数えた。
1960年(昭和35年)、このように新たに恵比寿を冠した町が誕生したが、そのわずか2年後に住居表示に関する法律が施行されたことで、この区域はもう一度町名変更の洗礼を受けることになる。
これは現在まで継承されている住居表示実施後のものであるが、恵比寿西と恵比寿南は概ね残区域を併呑する形になっているが、恵比寿東は消滅してしまっていることである。その間、わずか6年ほど。恵比寿東一丁目は、JR山手線以東の区域を併せ単に恵比寿一~四丁目を構成する一部となったが、恵比寿東二丁目は何と新たに誕生した「東」という面白くも何ともない無味乾燥な町の一部となってしまった。恵比寿東二丁目に属した地域の方は、わずか6年程の間に、丹後町→恵比寿東二丁目→東三丁目と変わった上、住所を表す番号も、丹後町の地番→恵比寿東二丁目の新地番→東三丁目の住居表示番号と異動したわけで、いやはや難儀だっただろう事をお察しする。
さて、渋谷区恵比寿駅周辺地域の町名・町界変更について見てきたが、この地域を特徴付けるのはやはり「恵比寿」地名の拡大だろう。1927年(昭和2年)まで「恵比寿」と付く公式地名はまったくなかったにもかかわらず、今では恵比寿駅を中心として、恵比寿一~四丁目、恵比寿南一~三丁目、恵比寿西一~二丁目と大きな広がりを見せている。一方、一時的に恵比寿(恵比寿東二丁目)と名乗ったものの、今では恵比寿を名乗らなくなった一部地域もあり、必ずしも拡大一辺倒ではなかったことも特徴と言えば特徴だろうか。
現代と1927年(昭和2年)とを比べると、恵比寿駅周辺の地名は壊滅状態に近いと認識しつつ、次回に続きます。
東京都渋谷区、町名変遷の歴史昭和時代編
東京都渋谷区、町名変遷の歴史昭和時代編その2
東京都渋谷区、町名変遷の歴史昭和時代編その3
東京都渋谷区、町名変遷の歴史昭和時代編その5
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