前回、前々回と「東京23区の地名の由来」(著者:金子 勤、発行:幻冬舎ルネッサンス)の誤り等を指摘してきたが、今回はその3回目。最初に示したように品川区、目黒区、大田区のみとしてきたので、残る大田区について見ていこう。
まずは、本書176ページの南千束について。
南千束 由来は千束分の稲束の免税による。そこに千束池があり。弘安五年(一二八二年)、日蓮が身延山を下り当地の池のそばで、六十一歳で入寂したので洗足池と改称された。現在、南千束一~三丁目、北千束一~三丁目まである。
日蓮上人に明るい方は私が指摘するまでもないだろうし、地元大田区の千束地域の方も同様だと思うが、無批判にこの文を読むと「日蓮上人は千束池近くで入寂したので洗足池と改称した」としかならず、誤りだとすぐにわかるだろう。日蓮上人が身延山をおりたのは、病気療養のため、常陸国へと湯治に行くためであった。途中、武蔵国に入り、池上郷の池上右衛門大夫宗仲の館を宿とした時には病状は悪化し、これ以上、旅を続けることができなくなったと察した日蓮上人は、館の裏山にあった一宇を開堂供養し、長栄山本門寺と命名。ここを最後の居地と定めた。そして、10月13日に61歳で入寂されると、池上右衛門大夫宗仲は69,348坪を本門寺寺領として寄進したのである。
池上本門寺と千束池(洗足池)の距離は、直線でもおおよそ2km程度はある。この距離をもって「近く」というのは、感覚の違いもあるだろうが、なかなか「近く」だとは言い難い。そもそも、千束池→洗足池への字の書き換えは、江戸後期の日蓮上人袈裟掛けの松伝説とセットで用意された「袈裟をかけた際、池の水で足を洗った」という話を「せんぞく」の読みに合わせて「洗足」とした「かけことば」である。つまり、日蓮上人の入寂も池上(長栄山)本門寺とも直接の関係はないのだ。
推測だが、著者は無分別に現地を訪れなくとも手に入る、適当に仕入れた情報を思いついたまま並べただけの知識しか持たない故に、このようないい加減な記載になるのではないだろうか。他項目を見ても、勘違いというにはあまりにレベルの低いものが多く見られることから、その思いを強く感ずるものである。
続いて、本書176ページの雪谷について。
雪谷 戦前までこの地は氷室といって氷をつくっており、夏にその室から出して来て売っていたという。鎌倉雪ノ下も氷をつくった所。現在、雪谷大塚町と東雪谷一~五丁目、南雪谷一~五丁目まである。
何度も言うが、著者は自然地形から地名はあるべきとの持論を捨てたかのような記載である。雪谷(ユキガヤ)の「ユキ」は崩壊地形を指すものであり、実際、日下山(髭山)という小名もあって(バス停名にも残る)髭状の崩壊地形を指す地名も雪谷内にあることからも、自然地形説をあげてほしかった。なお、氷屋があったのは事実だが、雪谷(雪ヶ谷)の地名は戦国時代以前に遡ることから、いかにこの氷室説がいまいちだと言うことは著者には言わずもがなだと思うのだが…。
続いて、本書177ページの田園調布について。
田園調布 大正七年以降、渋沢栄一らによって都市開発されたので「田園調布」と名付けられた。それ以前は「調布村」といい、自生する麻(春分に種を蒔き秋分に刈る)や苧の皮を玉川で晒し、砧で打って布を作り府中に献上した。現在、田園調布一~五丁目、田園調布本町、田園調布南がある。
「大正七年以降、渋沢栄一らによって都市開発されたので「田園調布」と名付けられた」という記載で、なぜ田園調布となったのかわかりますか? 続く文に調布村とあるので、調布はわかるにしても「田園」と付いた理由はさっぱりわからないのが普通だろう。田園都市株式会社の存在と、調布田園都市という呼称の説明無しに語るのは困難というか無理があろう。その後に続く、「~府中に献上した」とあるのは蛇足で、こんな記述をするくらいならもう少しでも田園調布の説明に費やすべきだ。ちなみに調布村となったのは明治22年(1889年)からと、けっして古い地名などではない。
続いて、本書177ページの久が原について。
久が原 一般的には平安時代、空閑地として朝廷に物納した所という。当区では陸地が呑川に呑み込まれて行った所と考えられる。現在、久が原一~六丁目まであり。
また平安時代まで遡っている(笑)。「クガ」という名前からの崩壊(自然)地形説はここでも見えない。さらに、呑川についての記載はあるが、当地域において呑川と呼称されるようになるのは、どんなに早くても明治時代以降で、それ以前はやや上流から石川と呼ばれていた。呑川は蒲田方面から糀谷方面(海側)にかけての名前であり、久が原という地名の説明に使うのは誤り。現在の地図からのみ判定している著者の浅はかな考えがここでも伺える。そして、南久が原一~二丁目を記述漏れ。
続いて、本書178ページの池上について。
池上 由来は洗足池の池周辺に位置するのでそういう(新編武蔵風土記稿)。現在、池上一~八丁目まである。一丁目に日蓮宗大本山という池上本門寺があり、毎年盛大なお会式が行われる。
池上とは、今では池上駅や池上本門寺の存在から住居表示において東京都大田区池上一~八丁目あたりのこととされてしまっているが、本来の池上は現在の町名でいうと概ね上池台や仲池上あたりを指す。池上本門寺あたりは下池上だっだのだ。よって、著者の説明にある「由来は洗足池の池周辺に位置する」という新編武蔵風土記稿からの引用は正しい(引用元が正しいのだが、著者は引用そのものを誤っているものがあるので、いちいちこう書かねばならないのが辛いところ)。ここで指摘するのは、仲池上一~二丁目を漏らしているという指摘のみにとどめる。
続いて、本書178ページの大森について。
大森 大きな森があったからそういう(新編武蔵風土記稿)。「大杜」とも書いた。明治十年、アメリカから来日した動物学者エドワード・モースが大森貝塚を発見したのは有名な話である。現在、大森北一~六丁目をはじめ、東西南北と大森本町あり。
ここは一言だけ。大森中(一~三丁目)を書き漏れ。
続いて、本書179ページの羽田について。
羽田 由来は「埴田」で、関東ローム層の赤土から来ている。赤羽と同じことがいえる。〔類例〕1栃木県大田原市羽田/2茨城県桜川市羽田/3大分県大分市羽田/4大分県日田市羽田 羽田飛行場の飛行機と羽とは関係なく、本羽田一~三丁目の羽田をいう。現在、本羽田の他、羽田一~六丁目、羽田旭町がある。
「埴田」説は通説であって、特に疑義を持つものではないが、関東ローム層の赤土がこの羽田地域の地名の由来であるのかというと、疑問符が付く。地質学等の不勉強のため、まったくの素人考えとは思うが、多摩川下流域の氾濫原であって、地下30~40メートルほどは堆積された氾濫原の地層が形成されているような場所が、台地の切片等で見られる赤土が出る(見える)のだろうか。で、本論に戻り、ここで指摘したいのは「本羽田一~三丁目の羽田をいう」の箇所で、この地域に属した羽田村(羽田猟師町が分村する母胎となった村。羽田村→羽田村(町)大字羽田→蒲田区(大田区)羽田本町→大田区本羽田と変遷)が「羽田」の由来だと言いたいのだろうが、言葉足らず。なお、羽田の付く現行町名に羽田空港一~三丁目が含まれていないが、これは別項で採り上げられているからであろう。
続いて、本書181ページの南六郷について。
南六郷 六郷とは、六つの郷から成っているのでそういう。古川町、高畑町、町屋町、八幡塚、雑色、出雲町などがある。現在、仲六郷一~四丁目、西六郷一~四丁目、南六郷・東六郷一~三丁目まである。
六つの郷から六郷はいい。だが、これを「古川町、高畑町、町屋町、八幡塚、雑色、出雲町など」と、などと付けるのも変だが、荏原郡六郷町が東京市蒲田区の一部となった際の町名を六つの郷(村)と掲げるのはおかしい。また、蒲田区の町名とするなら八幡塚ではなく八幡塚町、雑色ではなく雑色町が正しい。六郷とは、この辺りの多摩川を六郷川としたのがそもそもの由来で、古川村、高畑村、町屋村、八幡塚村、雑色村と八幡塚村の飛地扱いであった出村が六郷である。これら6村は、江戸期には飛地が細かく散在・入り交じっており、六郷と呼ばれるに相応しい村域だった。それから、六郷川そのものの由来については、中世あたりまでは遡れるということなので、上にあげた6つの近世以降の各村(飛地含)ではなく、武蔵国の国衙領としての八幡塚、永富、大森、蒲田、堤方、原の6つの郷(六郷保)を指すものと考えてもいい。
続いて、本書181ページの平和島について。
平和島 工業用地として埋め立てられた人工島。昭和四十二年、日本が平和であるようにと名付けられた。現在、平和島一~六丁目まである。
戦後、我が国でいわゆる「平和」を冠する通り名や町名、地域名、他にも企業名等に次々と採用された時期があったが、それは昭和20年代から30年代(西暦で言うと1950年代前後)であって、いささか昭和42年(1967年)に命名とは役所仕事といえど遅きに失した感がある。実際そのとおりで、町名として公式に住居表示として平和島一~六丁目が成立したのは昭和42年(1967年)で正しいのだが、平和島という名前自体は昭和20年代から存在した(一例として、平和島競艇場が平和島と冠したのは1957年(昭和32年)のこと)。現在の東京都大田区平和島一丁目あたりは、戦前から一部の埋立地として完成しており、戦前は捕虜収容所として、戦後は逆に戦犯の収容施設として活用された。その後、通称として「平和島」という名称が定着し、昭和30年代には先にふれた競艇場のほか平和島海水浴場等と平和島を冠した所が登場するに至る。つまり、歴史的経緯からすれば、著者の説明に難があることは確かであるとなる。
続いて、本書181ページの城南島について。
城南島 江戸城の一番南の方に大田区があるのでそういう。城南信用金庫もこの辺から神奈川県などをテリトリーとしている。現在、城南島一~七丁目まである。
由来は「城南」地区としての通称でいい(城東、城西、城北のいずれもある)が、城南信用金庫を引き合いに出すところが著者がよくわかっていないと痛感する箇所である。城南信用金庫は、昭和20年(1945年)太平洋戦争最末期に誕生したが、もとは入新井信用組合、品川信用組合、碑衾信用組合等といった荏原郡時代(東京市合併前)に各町村にあった信用組合が統合してできたもので、城南地域の各町村の信用組合を統合したという総称として「城南」が命名されたものである(よって、当初は城南信用組合といい、昭和26年(1951年)に城南信用金庫となる)。これと並列に城南島の由来を記すのは、命名理由が違うのだからいかがなものかとなるのだ。
続いて、本書181ページの京浜島について。
京浜島 東京の浜という意味。現在、京浜島一~三丁目まである。
「京浜」が「東京の浜」という説は滅多に聞かない説で、一般的には「京浜」とは「東京と横浜」を意味するだろう。ここでは京浜工業地帯の京浜に由来する。京浜島(京浜六区)となったのは、ここが東京都大田区内の中小町工場の移転先となったからで、いわゆる住工混在地域において「公害」という名目で町工場が追い出されるような時代に生まれた徒花でもある。だからこそ、島に追い出されたのではなく、京浜工業地帯の一翼を担うという強い自負によって命名されたわけである(その名も京浜工業団地)。それにしても「京浜は東京の浜」という説は、著者自身がまえがきで宣言した “「地名の由来創作厳禁」という思い” をかなぐり捨てたかのような印象を強く持つ。
続いて、本書182ページの羽田空港について。
羽田空港 昔は貝の養殖などが行われていた漁師町は昭和二十六年、羽田空港となった。当初、二十五ヘクタールにすぎなかったのが国際線となり、年々拡大して行った。平成十二年には、二期、三期工事で拡張され、一二七一ヘクタールとなった。現在、羽田空港一~三丁目まである。
これもひどすぎる。まず貝の養殖などとあるが、明治以降は海苔の養殖がメインであるはずで、貝については養殖というよりは好漁場と表現した方が適切だろう。まったく貝の養殖がなかったわけではないが、現在の羽田沖の潮干狩りからの著者の想像(妄想)という印象が拭えない。しっかり当地の歴史を確認すれば、羽田沖は海苔の養殖と書くべきだ。また、羽田空港とは通称で、戦前は東京飛行場(通称、羽田飛行場または羽田国際飛行場)、戦後の米軍接収中はハネダ・エアベース(ハネダ・アーミー・エアベース)となるが、あくまで形式上は東京飛行場であって、返還後に東京国際空港を名乗る。よって、著者のいう「漁師町は昭和二十六年、羽田空港となった」は、字が違うだけでなくまったく意味不明なのである。昭和26年(1951年)という年は、まだサンフランシスコ平和条約は発効しておらず(発効は翌昭和27年)、管轄が我が国(運輸省(現、国土交通省))に復帰したのは、昭和27年(1952年)7月だった。何か、昭和26年という年が羽田空港にとって特筆すべきことでもあるのだろうか。単に、昭和6年(開港の年)を昭和26年と混同していたなら、開いた口がふさがらない。
また、羽田猟師町は海老取川西側に位置し、昭和初期の東京飛行場以来の空港の位置は海老取川東側である(できた当時の住所は、東京府荏原郡羽田町大字鈴木新田字江戸見崎北ノ方といった)。米軍接収時点で言うなら、東京市蒲田区羽田穴守町、同市同区羽田江戸見町、同市同区羽田鈴木町(他に御台場等を含む)であり、羽田猟師町とは関係がない(東京市合併時点で羽田猟師町は蒲田区羽田二丁目等となった)。あえて江戸期以来の名称で言うなら羽田猟師町ではなく、鈴木新田と言うべきだろう。著者は、基本的部分での理解が欠けているような印象をここでも強く受けるのである。
さらに「当初、二十五ヘクタールにすぎなかった」とあるが、昭和6年(1931年)に開港した当初から52.8haあったので、これもでたらめである(まさか、5と2をひっくり返したという理由ではないだろうが…)。「平成十二年には、二期、三期工事で拡張され」についても省略しすぎて間違い。どうしてこうなった?というほどだが、何か悪書からでも引用したのだろうか?
以上、長くなったが、このような中身がないだけでなくいい加減な記述の多い、つまらない書籍の話題を続けるのも面白くないとしつつ、何とか大田区の項まで書き進めた。これまで採り上げてきた品川区、目黒区、大田区以外の20区についても、詳しくないので言及しないが、明らかに違うだろ!と気付く箇所は多いので、詳しい方がご覧になれば、本書は誤りだらけだと思われるに違いない。私の採り上げた3区以外は、まったくこのような状態にないと思う方が厳しいだろう。
さて、本書についてはこの話題の最初で書いたように、当Blogをご覧いただいている方から「あまりにひどい内容なので取り上げてほしい」的なお話しを頂戴し、図書館で借りて見た結果が情報提供どおり(というかそれ以上にひどかった)ことから書き進めた。これまで当Blogでは、Wikipediaの記載誤りや鉄道ファン向けの書籍にある地域歴史等に関する誤り等を指摘してきているが、この書籍と比べてしまうと、他書は誤りですらないような印象を覚えた。それほどまでに本書はダメなものと感じたのである。とはいえ、著者に同情の念を感じないわけではない。書籍とは、著者だけですべてが決まるものではなく、編集者という存在を無視するわけにはいかない。勝手な想像だが、著者の書いた内容は面白くない(売れない)ので、編集レベルで著者の意図とはかけ離れた形で出版されてしまう可能性だってある。ここまで取り上げてきたように、根源的部分から本書はいい加減な記載が多いので、編集レベルで大きく悪い方に振れたとは考えにくいが、可能性としてはかなり低いと思われるがあげてはおこう。
といったところで、思いがけず長くなった。もし、この書籍がコンビニ等で売られている、いわゆる500円本の類であって著者も誰だかわからず、地名の由来を面白可笑しく語るだけであれば、このような取り上げ方はしない。だが、著者がまえがきでふれている内容(他書には誤りが多いのでただす的な物言いや、地名捏造を批判するようなこと)や、実際にその場所を訪れ、地形に基づいた地名由来について記載しているようなことを喧伝しているのを見ると、この書籍はあぶないのでは?という危惧を抱かないわけにはいかない。羊頭狗肉。この言葉が相応しいと感ずるのは、まさにこの点からであるのだ。
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