« 池上電鉄奥沢線(新奥沢線)の歴史を探る その6 | メイン | 池上電鉄奥沢線(新奥沢線)の歴史を探る その8 »

2010/08/19

コメント

地主の方々も田園調布や洗足と同じような発展にあやかろうと努力されたのでしょう。雪谷大塚への駅名の変更も地主の方々の影響力があったのかも知れません、いよいよ次回でのクライマックスを期待しております。

木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。

>いよいよ次回でのクライマックスを期待しております。

嗚呼、すいません。
現在のところ、あくまで現時点ですが、毎日更新をやめ分量を多くしておおくりしているこのシリーズですが、実はもうしばらくおつきあいいただかないとならなくなりそうな感じです。その8まで書いていて、まだ工事にも話が進んでいませんからね(苦笑)。しかもその1あたりに書いたことと、食い違っているところも出てきていますし(その辺りは調査中故ご容赦を)。

というわけで、クライマックスは今の分量で行くとおそらくその13あたりまでとなりそうです。あてになりませんが。

悪戦苦闘する池上電鉄の生き様を見ると、鉃道官僚出身の五島氏の横暴さは今日でも相通ずるものがありますね。環八と交差する所の削られた敷地もこの戦いの夢の後であると聞いておりますが、確かなことは分かりませんが、更なる詳しい情報を心待ちしています。

コメントの確認

コメントのプレビュー

プレビュー中です。コメントはまだ投稿されていません。

処理中...
コメントを投稿できませんでした。エラー:
コメントを投稿しました。コメントは記事の投稿者が承認してから表示されます。 さらにコメントを投稿する

入力された文字と数字は画像と一致していません。再度入力してください。

最後に、下の画像の中に見える文字と数字を入力してください。これはプログラムを使ってコメントを自動的に投稿するのを防ぐために行われています。

画像を読み取れない場合は 別の画像を表示してください。

処理中...

コメントを投稿

コメントは記事の投稿者が承認してから表示されます。

アカウント情報

(名前とメールアドレスは必須です。メールアドレスは公開されません。)

2024年1 月

  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31