今から半年ほど前の2月、書店で「東京23区の地名の由来」(著者:金子 勤、発行:幻冬舎ルネッサンス)という書籍を見つけ、数多ある地名本の一つかと思い、ざっと見たところ、あまりのレベルの低さに辟易してすぐに書棚に戻した。あれから、半年。意外に…といっては失礼だが、現時点で数版を重ねているようで、書店によっては平積みされているところもあったりして、嗚呼、市場ではこういう低レベルの本でも入門書と言おうか、簡単に読める本の方がいいのだな、くらいに思い、やはりそれ以上気にすることはなかった。
だが、当Blogのコメント欄を通じて(非公開要請につき皆様からは見えません)、とある情報をいただき、本書について簡単に「ここがダメ」的な記事を書こうと思い、昨日近所の図書館で本書を借り、腰を落ち着けて高校野球観戦の合間に読了した。というわけで、私が書籍「東京23区の地名の由来」のここがダメだと感ずる点を書いていこう。
まず、本書の特長を一言で言うなら「東京23区の一部地名について著者の100文字弱程度のコメントを書き殴ったもの」となる。新書版サイズかつ正味220ページ程度の分量で東京23区の地名を解説することは、どう考えてもまともな方法は無理なので、私が感じた本書特長に示した方法を採るしかないのかもしれない。なので、著者都合の地名取捨選択と一貫性のない思いつきを書き連ねるしかないのもわからないではない。
ただ、その割には「まえがき」に
地名の由来は、多くの人にとって関心の高いテーマだと思われます。これまでも、地理学者のみならず、歴史学や民俗学の研究者など様々な立場の方が、諸説あげています。その中には、誤った説も見受けられました。そこで私は、「地名の由来創作厳禁」という思いのもと、研究を始めました。
地名の由来とは在名や自然地形名に基づいた説であるべきです。自然地形をもとにしているからこそ、関東圏内だけでなく、日本各地に似たような地名があることも明らかになっています。しかし、江戸・東京には武士領主の専横で、そうした説が陰をひそめてしまいました。本書は、それらを掘り起こし、各地に足を運び、研究した記録です。
本書をとおして、日本各地の地名や地形にも興味をもっていただけたら幸いです。
二〇一〇年一月吉日 金子 勤
と、なかなかに理想を語っているのである。中でも「それらを掘り起こし、各地に足を運び、研究した記録」という点は、机上の空論ではないと言わんばかりなのだが、残念ながら本書の内容からは短すぎるためか、表現下手だからなのかはわからないが、私の読解力不足の可能性も高いが、まったく見えない点は残念である。もちろんそれ以外にも、明らかに著者が「受け売り」だろうとしか思えない箇所も多く感じた。要は、まえがきの理想と肝心の本文のレベル差が著しく、羊頭狗肉だと思うのだ。最初から本書は分量が少ないので書き足りないことも多い、等としていればまだしも、である。
では、私がこう感じた理由について、具体的に本書の内容を確認しながら論じていこう。とはいえ、私も東京23区の地名に明るいわけではないので、地域歴史研究の、特に池上電気鉄道等の歴史を調べていく過程である程度詳しくなった、品川区、目黒区、大田区の3区についてのみ示すこととする。
まずは品川区。本書123ページの平塚について以下に引用する。
平塚 当町は平塚街道沿いで道標となる町。「塚」には物見塚と街道の道標塚がある。道標塚は二つあるのが通例。現在、平塚一~三丁目まである。
たったこれだけか、と思うかも知れないが、本書はこの程度の説明しかない。で、この著者は神奈川県の地名研究をホームグラウンドとしている方のようで、本書にもいたるところに神奈川県下での地名由来知識を援用しているが、所詮そのレベルの知識しかないので勘違いと言おうか、誤りの連発となっている。平塚の由来を平塚街道(中原街道、相州街道等、地域によって様々な呼ばれ方をする)から採っているが、「平塚」という字面の意味だけでなく、歴史的にどのようにして「平塚」が当地域に当てられたかという視点がまったく見られない。平塚に限らず、このような傾向は他にも見えるので、これが本書の著者の致命的欠陥と考えていいだろう。とても「各地に足を運」んだとは思えないのである。
まず、平塚について。平塚という地名は、江戸期には小山村及び戸越村の小名であって、明治初期の地租改正では小名がそのまま字名として採用された(ただし、戸越村の平塚は中延村の平塚として継承)。明治22年(1889年)に戸越村、中延村、小山村、上蛇窪村、下蛇窪村の5村を合併して平塚村が成立した際には、平塚村の大字となった小山及び中延の小字として平塚は残った。この時点で平塚は、当時としては広域地名としての平塚と、大字小山及び中延に所属する小字の平塚と、二つ(三つ)が併存することになった。5村合併時に平塚村としたのは、5村のいずれもが傑出した存在でなかったので、そのいずれの名前も採用しないこととし、行政の中心地として村役場の置かれる場所を村名としたのだった。
そして、平塚村は町制施行時に平塚町とするが、これは神奈川県に同じ町名がある(現 平塚市)と紛らわしいとの指導で、わずか一年程度で平塚町を荏原町と改称。ここで平塚は、広域地名から再び大字小山及び中延の小字名のみに戻った。だが、昭和7年(1932年)に東京市に合併されると荏原町は荏原区になり、荏原町下の各大字はそのまま「町」を付け、荏原区の町となった。大字がそのまま町となったことで、例えば大字小山は小山町となった。では、大字に属した小字はどうなったのか。小字は平塚も含めて公式地名としては完全消滅したのである。
だが、人口爆発によって一つの町をそのまま区に昇格させた荏原区をそのまま5つの大字単位のまま町としたのは失敗だった。結果、荏原区の町は再編され、その一部は平塚一丁目~八丁目となり、従来の小字平塚の区域も含めて復活した。それが戦後の住居表示で、現在の平塚一丁目~三丁目となったのだ(荏原区が品川区と合併し、荏原の名が区名として失われたことで、住居表示の際、平塚だった町域の多くが荏原になった。戦前の平塚の復活に通ずるものがある)。だが、江戸期よりの小名 平塚の領域は、現在の平塚一丁目~三丁目の町域から外れてしまっている。
というわけで、長々と平塚の変遷を辿ったが、平塚の原点は江戸期よりの小名 平塚にあることがわかるだろう。この平塚とは、もちろん平塚街道の平塚などではない。もちろん道標などでもない。では、何に由来するのか。著者がまえがきでいう「地名の由来とは在名や自然地形名に基づいた説であるべきです」となろう。だいたい、このあたりで平塚街道などとは言わず、平塚郊外の中原の地にかつてあった中原御殿に由来する「中原街道」あるいは「相州街道」(相州道)であり、著者の神奈川県かぶれが痛々しい。
一つ目から長くなったが、要は二~三行で地名の由来を語ろうなどということがいかに無理かを示すためでもある。もちろん、中身が正確あるいは正論であるのなら、いやせめてまえがきに示したスタンスであればいいのだが、そんなことはお構いなしだとわかるだろう。では、続く問題点を指摘する。本書123ページの戸越について、以下に引用する。
戸越 江戸名所図会に「とごえ」と仮名がふってある。江戸を越えた所(南浦地名考)。江古田の谷戸を越えた所。現在、戸越一~六丁目まである。
平塚の説明で、著者の採り上げ方に難があることを示したので、以下では簡潔に指摘していく。まず、戸越の定番説である「江戸を越えた所」はいいとして、それに続く「江古田の谷戸を越えた所」とは、何を意味しているのだろうか。もちろん、江古田(東京都練馬区・中野区境辺り)や荏子田(横浜市青葉区)などの個別地名を指すわけではないはずだが、説明不足のように思う。
続いて、本書124ページの小山について。
小山 由来は、八幡神社付近が小高い山のような形であることによる。小山村の初見は寛永二年(一六二五年)である(東京府村誌)。現在、小山町一~七丁目まである。
一言。小山町一~七丁目は誤りで、正しくは小山一~七丁目。
続いて、本書124ページの二葉について。
二葉 昭和十六年、東京市提案の「双葉」を区は「二葉」にして採用したという。二枚の葉から、すくすく伸び成長していくという意味だという。板橋区の「ふたば町」は「双葉町」となっている。力士・双葉山全盛時代だったためか。現在、二葉一~四丁目まである。
著者まえがきでは「そこで私は、「地名の由来創作厳禁」という思いのもと、研究を始めました」としているが、この二葉の項の後段にある「力士・双葉山全盛時代だったためか」とは何だろう? 本書中に数多ある著者錯乱の一つに過ぎないが、東京市提案の「双葉町」は「豊町」同様、いわゆる嘉語を採用したに過ぎない。これを「二葉町」と変えた理由を語ってほしいところだが、著者が「掘り起こし、各地に足を運び、研究」してもわからず、双葉山に因んだ的な戯れ言を短い文中で書くとはレベルが知れる。なお、昭和16年(1941年)に成立したのは二葉でなく二葉町(一~六丁目)である。
また唐突に板橋区の双葉町についてふれているが、これは昭和31年(1956年)に誕生した新町名であり、何をもって比較対象としているのか意味不明である。戦前(戦時体制)と戦後では採用した意味合いも違うだろうに。
続いて、本書125ページの旗の台について。
旗の台 八本の白い旗を八幡神社に奉納したといわれる源氏の必勝祈願が「旗」の由来である。関東地方には源氏の白旗にちなんだ「白幡」地名が多い。源頼朝を祭神とする神社が鎌倉府内に創られ、源頼義、元八幡創建(神社辞典)。現在、旗の台一~六丁目まである。
さすがに「しかし、江戸・東京には武士領主の専横で、そうした説が陰をひそめてしまいました」とする著者も、旗の台の説明ではこれを採用している(まぁ著者錯乱気味なのでいちいちまえがきについて語るのもやめよう)。だが、神社辞典の引用の仕方が今一つで著者が何を言わんとしているのかさっぱり見えない。さらに、ここで源氏関連の説明をするなら、先の平塚の項でも源氏関連の「平塚」(ひらづか)説もあげてしかるべきだろう。平塚の由来は、新羅三郎義光が後三年の役鎮圧の帰途、この付近で野営していた際、夜盗の襲撃を受け多くの兵を失い、ここで死亡した兵を地元民が哀れんで葬ったのが平塚と称される塚だったとする。現地を調査したとする著者なら「平塚之碑」の存在を知っていそうなものだが…。
続いて、本書126ページの八潮について。
八潮 昭和十四年、埋め立て地に付けられた地名。未来への発展。八の字を横にすると「∞」無限大の発展となる(広報しながわ)。現在、八潮一~五丁目まである。
ちょっとこれはひどい。今まで取り上げた中で最もひどいものの一つに数えていい。まず、昭和十四年とあるのは、東京市がこの地の埋立事業を開始した年であって八潮が多くを占める大井埠頭は、まだほとんど造成すらできていない。無論、地名なども京浜○区という形式番号的なものしかないが、同年「八潮」という名前は、地名ではなく大井埠頭の埋立対岸にある府立第八高等女学校で生まれていた。それは同校の短歌部及び会誌の名前として、である。「八潮」の由来は学校名から推察できるように「府立第八」の「八」と品川湾を望み見る環境から「八重の潮路」という古語から「八潮」としたのだった。この名称はさすが短歌部というべきか、語感の響きもいいことから同校の同窓会名にまで格上げされ、ついには学制改革で高等学校となる際、校名変更を実施し、東京都立八潮高等学校としたのである。
そして、大井埠頭内の町名の八潮は、これよりずっと後年となる昭和55年(1980年)2月に住居表示実施された際、八潮一~四丁目が成立して(五丁目は当初なかった)採用されたのだった。無論、公募前にいわゆる大井埠頭その1を八潮などと通称されてもいなかった。また、八潮と付く町名はほかに東八潮がある。なお、八潮となった理由は公募の結果である(応募総数たったの511件。ただ、対岸の八潮高校の影響はゼロではないだろう)。
さらに広報しながわの引用だと主張しているが、無限大の話は町名採用時には見えないものである。広報が何でもかんでも正しいものではないことは、著者もいい年だろうから言わずもがなだろうが(奥付によれば1929年生まれ)、由来を書くなら「八重の潮路」くらいは書いてほしいものだ。以上、いかに八潮の説明がむちゃくちゃかを示すのは、これで十分だろう。
というわけで、最初の予定では品川区、目黒区、大田区を採り上げるつもりでいたが、あまりの誤りの多さとレベルの低さで、品川区だけで紹介されている14の地名のうち、6つを指摘してしまった。よって、残りの2区は機会を改めておおくりする予定とする。続きはこちら。
以前は平塚の碑が立っていたと聞いていますが、後三年の役の帰路に此処で休息していた兵士が盗賊に襲われて皆殺しにあったことを悼んで地元の人が塚を建てて弔ったと聞いています。戦後ブルトーザーで塚を崩したところ甲冑が多数出土したとのことです。後日談としてこれに関わった人が不可解な死を遂げたという余談迄聞いております。荏原町から下丸子経由で平間に向かう鎌倉街道に沿っていますのである程度信憑性があるでしょう。中原街道とは無関係であることは間違いありません。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/10/22 20:59