前回(その5)は、荏原郡調布村が奥沢線(調布線)計画にいかなる理由で乗ったかについて議論を展開した。前々回(その4)では池上電気鉄道の真の狙いについて議論したので、今回は昭和2年(1927年)3月10日の免許申請後の状況について議論を展開していこう。
最初に確認しておきたいのは、「東京急行電鉄50年史」に記載されている「昭和2年(1927年)6月4日 池上電気鉄道雪ヶ谷~国分寺間鉄道敷設免許申請」とある事項についてだが、大変残念なことにこれを裏付ける公文書資料が見出せていない。もちろん、公文書館等にある文書をすべて閲覧したわけではないので見逃しがあるのは間違いないが、この申請が正しい前提として議論を進めていく。
この前提を受容れたのは、次の文書の存在からである。
御請書
弊社出願ニ係ル弊社線調布大塚駅ヨリ分岐シ目黒蒲田電鉄線調布ニ至ル一哩及更ラニ延長シテ省線国分寺駅ニ至ル十三哩計十四哩ノ鉄道敷設ニ関シ御免許ノ上ハ工事施行認可申請ニ際シ弊社線雪ヶ谷駅ヨリ分岐シ玉川村奥沢部落ニ於テ目黒蒲田電鉄線ト交叉スル事ニ設計可仕此段御請申上候也
昭和二年十二月十日
池上電気鉄道株式会社
取締役社長 男爵 中島久万吉
専務取締役 後藤国彦鉄道大臣 小川平吉 殿
池上電気鉄道から鉄道大臣宛に提出された「御請書」の日付は、いわゆる国分寺線(奥沢線または新奥沢線)の免許がおりる6日前の昭和2年(1927年)12月10日で、この文書の提出をもって国分寺線(奥沢線)の免許が確定したと思われる公式重要文書である。まずは、この短い文書をじっくり吟味してみよう。最初に、
「弊社出願ニ係ル弊社線調布大塚駅ヨリ分岐シ目黒蒲田電鉄線調布ニ至ル一哩」
とあるのは、昭和2年(1927年)3月10日免許申請の調布線を指すが、起点が大森駅から3哩61鎖(3マイル61チェーン)地点でなく、調布大塚駅と記載されている点が異なる。そう、昭和2年(1927年)8月に新たに御嶽山前駅~雪ヶ谷駅間に設置された調布大塚駅のことで、当初の免許申請時にはなかった駅である。免許申請から約5か月を経て駅が新設された理由は様々なものが考えられるが、認可に向けてのアピールであることは間違いないだろう。分岐点を調布大塚駅に設定したことで当初計画の線形も改められ、より適切な形になったと見込まれる。続けて、
「更ラニ延長シテ省線国分寺駅ニ至ル十三哩」
とあるのは、まさに国分寺駅までの延長線を指している。つまり、この「御請書」の書き方から推測すると、先に調布線(調布大塚駅~田園調布駅間)の免許申請があり、続けて国分寺線(田園調布駅~国分寺駅間)の免許申請が出されたように見える。この追願が、昭和2年(1927年)6月4日とされる国分寺線の免許申請ではないかというわけである。そして、さらに続く文で注目されるのは、
「御免許ノ上ハ工事施行認可申請ニ際シ弊社線雪ヶ谷駅ヨリ分岐シ玉川村奥沢部落ニ於テ目黒蒲田電鉄線ト交叉スル事ニ設計可仕」
とある部分で、「調布大塚駅~田園調布駅間」及び「田園調布駅~国分寺駅間」が免許されれば、工事施行認可申請時には「雪ヶ谷駅~奥沢地区内で目黒蒲田電鉄線と交叉」へと設計変更する、というくだりである。
実に興味深い展開である。簡単に流れを整理すると、
- 昭和2年(1927年)3月10日、「大森駅から3哩61鎖(3マイル61チェーン)地点~田園調布駅間」免許申請。
- 昭和2年(1927年)6月4日、「田園調布駅~国分寺駅間」免許申請。
- 昭和2年(1927年)前半?、「大森駅から3哩61鎖(3マイル61チェーン)地点」を「調布大塚駅」に変更。
- 昭和2年(1927年)8月19日、雪ヶ谷駅~御嶽山前駅間に「調布大塚駅」を開業。
- 昭和2年(1927年)12月10日、「調布大塚駅~田園調布駅間」を「雪ヶ谷駅~奥沢地区内」に設計変更を約すことで免許認可願。
- 昭和2年(1927年)12月16日、「調布大塚駅~田園調布駅間」及び「田園調布駅~国分寺駅間」が許認可。
となる。以上を図示すると、以下のとおりとなる。
まず、大正末期の調布線(大森駅から3哩61鎖(3マイル61チェーン)地点~田園調布駅間)申請直前の池上電気鉄道(紫色)と目黒蒲田電鉄(緑色)&東京横浜電鉄(黄緑色)連合軍の位置関係から確認しよう。実線は開業路線で、点線は免許線を示すが、例外として奥沢駅から西方向(図中右)に伸びている点線は、大正13年(1924年)免許申請中の奥沢駅~瀬田河原間の路線である。この路線は、いわゆる国分寺線の許認可後に免許となるが、これを示しておかないと調布線及び国分寺線の意味合いも見えなくなるので、申請中路線であるが以下の図にも示してある。
ご覧のように、池上電気鉄道は雪ヶ谷駅で足止め状態であって、目黒蒲田電鉄は目黒駅~蒲田駅間を全通、東京横浜電鉄は丸子多摩川駅~神奈川駅間を開業し、目黒駅~神奈川駅間の直通運転を行っていた。さらに、大岡山駅から大井町駅間及び渋谷駅~丸子多摩川駅間の計画も進んでおり、池上電気鉄道は五反田駅までの延伸だけでは厳しい状況にあったことが確認できるだろう。
そして、調布線(大森駅から3哩61鎖(3マイル61チェーン)地点~田園調布駅間)の免許申請が出され、わずか1マイルの鉄道免許とはいいながら、調布田園都市の中に駅を作るというテリトリーを侵すのみならず、交通結節点に割り込んでいこうという強い意図が感じ取れる。
しかし、調布線だけでは免許の可能性が低いと見るや、さらに田園調布駅~国分寺駅間という長大な国分寺線を追願し、これによって短絡線だという批判をかわそうとした反面、目黒蒲田電鉄の二子玉川線計画と完全に競合する路線の誕生となり、激烈な両社の戦いに発展していく。
池上電気鉄道は、調布線・国分寺線計画の分岐駅を調布大塚駅に変更し、結果として駅間が相当狭まる格好となってしまうが、これは五反田駅方向への接続よりも既開業の蒲田駅方向への接続とした方が、早期に免許されるという思惑も指摘できる。もっとも、この頃は東京横浜電鉄の目黒駅乗り入れの弊害から、丸子多摩川駅~蒲田駅間の往復運転(現在の東急多摩川線と同じ)となっていたため、田園調布駅から蒲田駅方向への接続需要も考えられていたかもしれない。
そして、御請書に示された雪ヶ谷駅~奥沢方面への計画変更。渋谷駅~丸子多摩川駅間が開通しただけでなく、田園調布駅~丸子多摩川駅間も複々線となったことで状況が変わり、接続駅を雪ヶ谷駅に変更して五反田駅方向へと戻した。池上電気鉄道も雪ヶ谷駅から先、大崎広小路駅まで開通し、五反田駅までも工事施工中だったことから、東京市内への乗り入れを実現できるであろう五反田駅方向としたのである。
ここで、次の4つの疑問点を指摘できるだろう。
- 「田園調布駅~国分寺駅間」の免許申請を行った理由は何か。
- 「大森駅から3哩61鎖(3マイル61チェーン)地点」を「調布大塚駅」に変更した理由は何か。
- 「調布大塚駅~田園調布駅間」及び「田園調布駅~国分寺駅間」の免許申請が許認可されなかった理由は何か。
- 「調布大塚駅~田園調布駅間」を「雪ヶ谷駅~奥沢地区内」に設計変更を約すまでに至った経緯はいかなるものだったのか。
では、これらについて検討する…といったところで長くなったので、その7に続きます。
コメント