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2010/08/13

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田園調布の田園は渋沢氏が提唱した欧米のガーデンシティーの直訳であると聞いております。田園とは田んぼや畑であって庭園ではありません。花園とすることもできますが、中国語では紅灯の巷の意味があり、香港に行った時女性が接待するクラブにエリザベスガーデンという所がありましたが多分その意味でしょう。田園の正確な意味は庭園ではありませんが、適当な訳語がなかったので田園とくっつけたのでしょう。陶淵明ではありませんが田園正に荒れんとすいざ帰りなんと洒落込みますか。

> 途中、武蔵国に入り、池上郷の池上右衛門大夫宗仲の館を宿とした時には病状は悪化し

池上郷とお書きですが、中世において池上郷という郷は本当に存在していたのでしょうか。
本門寺と本行寺のWeb頁では以下の様に池上郷が存在していたような記述が見られますが、私は寡聞にして存じません。

・本門寺縁起
http://honmonji.jp/outline/engi.html
日蓮聖人は、弘安5年9月8日9年間棲みなれた身延山に別れを告げ、病気療養のため常陸の湯に向かわれ、その途中、武蔵国池上(現在の東京都大田区池上)の郷主・池上宗仲公の館で亡くなられました。

・本行寺由来
https://www.hongyozi.or.jp/history/
日蓮聖人は、今から700余年前の弘安5年(1282年)9月8日、常陸国(ひたちの国/現在の茨城県北部)での湯治療養などのため、9年間にわたり住み慣れた身延山久遠寺(みのぶさん くおんじ/現在の山梨県巨摩郡身延町に所在)を後にされ、同月18日、武蔵国池上郷(現在の東京都大田区)の鎌倉幕府の作事奉行であった池上宗仲公(いけがみむねなかこう)の館にお着きになられました。


日蓮が身延山を下りて池上にたどり着くまでの記述資料を調べると

・日実 『当家宗旨名目』
十八日午剋武州荏原郡千束郷池上着給

・日朝 『元祖化導記』
十八日午剋武蔵国荏原郡千束郷池上村着了

となっていて千束郷池上であり池上郷とは書いてありません。また

・日興 『宗祖御遷化記録』
弘安五年丙午九月十八日武州池上入御。

となっていて、単に池上とのみ記しています。

「池上郷」と記した古文書をご存知でしたら、ぜひご教示いただけたらと思います。

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