私がこれまでの材料から考えるに、ある時点での計画においては駅ホーム北側道路への直接的なアプローチが存在したが、桐ヶ谷駅が開業するまでの間に当該アプローチはなくなり、開業時においては駅ホーム南側から階段及び通路を経て駅本屋に達し、そこから狭いながらも駅前広場を通って駅南側道路に直結させた。一方、駅北側道路へは駅本屋から私道を経由してアプローチした、と考える。つまり、計画図である「桐ヶ谷停車場之図」は計画でしかなく、実際にはこのとおりではなかったと結論づける。
という結論をかませてみたが、こう考えた理由もやはり「桐ヶ谷停車場之図」にある。この図を再度掲げ、その理由を述べてみよう。
この図のように駅ホームからのアプローチを行なうには、斜面を削り取って一定の高さまで私道側の高さを下げる方法を採るか、あるいは私道側の高さに合わせて階段等の高架構造物を設置する方法の二つがある。上図では、斜面を削り取る方法を採用しているが、これはそれほどの高低差がないからだと考えられる。斜面を削り取ってしまうことによる不具合は、さらに高い部分との高低差が大きくなり、より急坂となってしまうことである。そこで図にもあるように、道路を曲げることで少しでも斜面の勾配を少なくしようとしているが、言うまでもなく、この図程度のものでは効果的には働かない。削り取る前の斜面の勾配の方が少ないのは当然である。
とはいえ、利用客の不利は無視してコストのみを考えれば、高架構造物を作るよりもこの方法が安価なのは疑いない。しかし、これまで取り上げてきた地図をご覧になれば確かめられるように、「桐ヶ谷停車場之図」のような斜面を削り取り私道を曲げるという痕跡を見ることができない。当該部分の私道は直線状に書かれており、現在もそのようになっている。
前にも示した写真だが、左側の擁壁は削られておらずそのまま残っている。そして、それ以前の航空写真を見てもこのようにはなっていないのである。
これは1947年(昭和22年)に米軍によって撮影された航空写真の一部で、桐ヶ谷駅周辺を拡大したものだが、中央部に見える傾いたグレーの長方形が桐ヶ谷駅のホーム跡?で、その左側を走る太い道路が第二京浜国道である。これまで示した古地図類にはまったく出てこないが、1934年(昭和9年)に計画されたものであるので、当然といったところである。肝心の私道部分がどうなっているのかはっきり見えないのが残念だが、駅ホーム跡と北側道路までの距離が相当あることから、こちら側へのアプローチはなかったと思われる。わかりにくいので、これとほぼ同じ場所を最近の航空写真で示しておこう。
こちらはカラー写真だけあって、線路に平行する私道がよくわかる。第二京浜国道はさらに拡幅され、上を首都高速道路が走るようになった。また、桐ヶ谷駅南側の道路も拡幅されているのがわかる。写真には見えないが、このすぐ近くには中原街道もあり、駅はなくなったがこのあたりが交通の要衝であることがわかるというものである。
さて、横道に逸れそうなので、論点を整理しよう。
桐ヶ谷駅北側の「踏切側下り線側に本屋があった」とすれば、「桐ヶ谷停車場之図」にあるような工事が必要となる。よって、斜面を削り取る工事が施工され、それは短期間の間に元に戻された、つまりはもう一度盛土して直線状の私道に造り直す必要があるが、そのような手間を桐ヶ谷駅~大崎広小路駅間、あるいは大崎広小路駅~五反田駅間の建設工事まっただ中にかけるだろうか?
まっただ中だからこそ、そのついでにできるというのもあるが、だとしても改札口が同時に存在していた期間はわずかか、あるいは踏切側下り線側の機能が失われた後に南側の橋上駅舎ができたという流れとなるだろう。なぜなら、池上電気鉄道の各駅いずれもが駅ホーム二方向への改札口は存在しないからである。
つまり、「踏切側下り線側に本屋があった」可能性は極めて低く、あったとしても南側の橋上駅舎と同時に存在していた可能性はさらに低い、と結論づけられる。よって、「東急の駅 今昔・昭和の面影 80余年に存在した120駅を徹底紹介」(著者 宮田道一、発行 JTBパブリッシング)の111ページにある桐ヶ谷駅に関する記載の
「島式ホームが、第二京浜国道の北側に接して掘割の中に設けられ、北側の踏切側下り線側に本屋があった。さらに南側には橋上駅舎があって国道の跨線橋ぎわであった。桐ヶ谷火葬場への最寄り駅ともなっていた。」
とあるのは、内容に疑問点があるというよりも内容が誤っていると言える。ただ、私も探してみたのだが、桐ヶ谷駅の写真さえあれば、この問題により明快な答えが出るはずだが、残念ながら見つけることができなかった。唯一と言っていいのは、戦後に米軍が撮影した航空写真で既に廃墟同然となったもののみで、これも島式ホームだったことと、東側私道が直線状になっていることを確認できるのみである。
さて、ここまで桐ヶ谷駅について調べてきたが、解決できていない問題を列挙して本稿を終えるとしよう。
- 駅開設時に「桐ヶ谷停車場之図」に記載されたような、斜面を削り取り駅ホームと私道をつないだ構造は実在したのか。
- 実在したとしたら、それはいつまで存在したか。南側駅舎と同時に存在していたのか。
- 南側駅舎は、桐ヶ谷駅開設時から存在したのか。
これら3つの問題は、本稿で一定の見解は示したが、決定的な証拠はない。よって解決できていない問題とした。このほかには、
- 桐ヶ谷駅廃止の理由。おそらく、単純構造の駅でなかったのが原因か。駅ホームから駅本屋までのアプローチが焼け落ちてしまったことで、高架構造物を再建するという手間が発生し、すぐに駅の営業を再開することができず休止扱いとなったまま、周囲の人たちからもないものとして扱われてしまい、そのまま廃止となった…みたいな流れを予想するが、果たしてそんな単純な話か?
- 桐ヶ谷駅付近の線路をいつ直線化したのか。これは、東急50年史あたりに載っているかと思っていたが、載っていなかった(探し漏れの可能性有)。もし、これが駅廃止(1952年(昭和28年)8月11日)より前に実行されていたとしたら、そりゃ駅復活はなくなるだろう。何となく既成事実先行で、戦後それほどの時を経ないで行われたのでは、と勝手な想像をしておく(少なくとも米軍航空写真では駅ホーム跡が見えるので、1947年(昭和22年)以降なのは確実)。
の2点を挙げておく。これらの疑問も含めて、新たな事実等を確認できたら、本稿の続きとして「その5」を書こうと思う。
では、最後に「大崎町郷土教育資料(大崎町小学校長会。昭和7年9月30日発行)」という、桐ヶ谷駅があった東京府荏原郡大崎町(現在の東京都品川区の一部)縁の資料から、桐ヶ谷駅の乗降客数(一日平均)に関するデータを紹介する。
1927年(昭和2年) 乗客数141人/降客数127人
1928年(昭和3年) 乗客数883人/降客数842人
1929年(昭和4年) 乗客数1,137人/降客数1,086人
1930年(昭和5年) 乗客数954人/降客数909人
1927年(昭和2年)は、8月28日から年末まで。1930年(昭和5年)は1月分のみ。これを多いと見るか少ないと見るかは人それぞれだと思うが、五反田駅まで全通して以降は、ほぼ併走するライバル目黒蒲田電鉄の目蒲線(現在の東急目黒線及び東急多摩川線)には及ばなかったものの、他私鉄線と比べればけっして少ない数字ではない。また、開業当初は桐ヶ谷駅あるいは大崎広小路駅が終点だったため、あまり振るわなかったが、目黒蒲田電鉄はさらに少なかった。同資料に掲載されている不動前駅の乗降客数(一日平均)を見てみよう。
1923年(大正12年) 乗客数13人/降客数13人
1924年(大正13年) 乗客数52人/降客数52人
1925年(大正14年) 乗客数448人/降客数448人
1926年(大正15年) 乗客数1,840人/降客数1,840人
1927年(昭和2年) 乗客数2,416人/降客数2,416人
1928年(昭和3年) 乗客数2,784人/降客数2,784人
1929年(昭和4年) 乗客数2,866人/降客数2,866人
1930年(昭和5年) 乗客数2,652人/降客数2,652人
1923年(大正12年)は3月11日から年末まで(途中関東大震災による営業休止期間を除く)。1930年(昭和5年)は1月分のみ。統計上、乗降客数としてカウントしているからか、乗客数と降車客は一致している。同年代で比較すれば、不動前駅の方が2~3倍ほどの乗降客数を示しているが、開業時の数字はとんでもないものだろう。昔はガラガラ電車だったという話を文献では目にするが、一日平均で13人しか乗らない駅というのはすごすぎる。しかも、目黒蒲田電鉄の宣伝では目黒不動への最寄り駅としてアピールしているのである。にもかかわらず、これだけの実績しかなかったのだから、本駅の乗降客数の伸びは関東大震災後の周辺宅地化、工場化への結果と言えるだろう。
たったこれだけのことからもわかるように、池上電気鉄道は目黒蒲田電鉄よりは劣っていたかもしれないが、けっしてだめな会社ではなかった。営業成績も五反田駅まで全通してからは上向きになり、東京横浜電鉄沿革史や東急50年史に書かれているだけの会社ではなかったはずだ。
といったところで、桐ヶ谷駅の歴史を探るのはここでいったんおしまい。
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