その1及びその2では、桐ヶ谷駅の簡単なプロフィールと東西両方向に改札(乗降客口)が存在したのか、という点について探求しようとしてきたが、ここで池上電気鉄道が五反田駅~蒲田駅間(現 東急池上線)を全通させた時点(1928年(昭和3年)6月17日)における、各駅のホーム方式及び改札口について見ていこう。桐ヶ谷駅が南北(上り下り)両側に、改札口が存在することが疑問であることが確認できるはずだ。
- 五反田駅 → 島式ホーム / 改札口上り側一方向
- 大崎広小路駅 → 島式ホーム / 改札口上り側一方向
- 桐ヶ谷駅 → 島式ホーム / 改札口上り下り側二方向?
- 戸越銀座駅 → 対面式ホーム / 改札口下り側一方向
- 荏原中延駅 → 対面式ホーム / 改札口下り側一方向
- 旗ヶ岡駅 → 対面式ホーム / 改札口下り寄り一方向
- 長原駅 → 対面式ホーム / 改札口下り寄り一方向
- 洗足池駅 → 対面式ホーム / 改札口下り寄り一方向
- 石川台駅 → 対面式ホーム / 改札口上り側一方向
- 雪ヶ谷駅 → 対面式ホーム / 改札口上り側一方向
- 調布大塚駅 → 対面式ホーム / 改札口下り側一方向
- 御嶽山前駅 → 対面式ホーム / 改札口上り側一方向
- 東調布駅 → 対面式ホーム / 改札口上り側一方向
- 慶大グラウンド前駅 → 対面式ホーム / 改札口上り寄り一方向
- 池上駅 → 対面式ホーム / 改札口下り側一方向
- 蓮沼駅 → 対面式ホーム / 改札口上り側一方向
- 蒲田駅 → 対面式ホーム(片側のみ)/ 改札口下り側一方向
以上、17駅のうちで改札口が両側に設けられているのは、桐ヶ谷駅を除いて一つもない。当時は、1両編成で運行されることがほとんどだったことを考えれば、二方向に改札口があることが不自然である。なお、島式ホームが多い理由は、いちいち線路を曲げる必要がない(=建設費が安価になる)というほかに、開設当初は単線だったことによる(蒲田駅~雪ヶ谷駅は単線で開業。のち、桐ヶ谷駅まで延長する間に複線化した)。一方、五反田駅と大崎広小路駅が島式ホームであるのは、駅が高架構造となったことで、二つのホームを設けるよりも一つのホームを設けた方が逆に建設費が安価になるからである。つまり、島式か対面式かは、建設費によって決まっていたと考えて問題ないだろう。
では、桐ヶ谷駅の場合はどうだったのだろうか。一般的には対面式ホームの方が建設費が安価であるにもかかわらず、開業前の図面や地図からわかるように島式ホームとなっている。島式ホームのメリットは五反田駅や大崎広小路駅がそうであるように、高架構造物を建設する等といったホーム建設の際に余分な費用がかかる場合、現れてくる(二つのホームを作るより線路を曲げる方が安価ということ)。そういうメリットがなければ、桐ヶ谷駅だって対面式ホームを採用したはずである。
このアプローチを採れば、桐ヶ谷駅ホーム北側、つまり地上と高低差がほとんどない側に改札口を設けるつもりであったなら、わざわざ高価な島式ホームを採用せずに、他の地上駅同様に対面式ホームを採用したはずである。だが、島式ホームを採用したということは、桐ヶ谷駅ホーム南側、高低差が数メートルに及ぶ方へのアプローチが求められたからと考えられる。そして実際に、地図から明らかなように、駅ホーム南側に階段を設け、登り詰に駅本屋を設置し、駅南側道路と接続させている。一方、駅北側道路にも接続できるように、線路横に私道を設けた。こう考えれば、島式ホームや私道を設置したこともすべて説明できるだろう。
ここでもう一度、開業前の桐ヶ谷駅の図面を見てみよう。前回は駅東側へのアプローチを確認したが、実はもう一つ、気になる部分がある。
図に赤○が大小二つあるが、大きい方は実際に階段や通路、駅本屋があったであろう場所で、ここで注目するのは小さい方である。この出っ張りのようなものは何だろうか。推測でしかないが、この部分は南側道路へのアプローチであり、階段等の構造物が記載されていない平面図という可能性が考えられる。となると、この図面では駅ホーム二方向のアプローチが記載されていることとなるが…。いずれにしても、この平面図にはいくつか疑義を持たざるを得ないものではある。列挙すると、
- 駅ホーム東側(図上では下側)の私道が北側で一部曲げられているが、地図上ではほぼまっすぐになっている。
- 駅ホーム東側(図上では下側)の私道が南側はまっすぐになっているが、地図上ではほぼ直角に曲げられ、しかも幅員が広がっている。
- 線路と南側(図上では左側)道路がほぼ直交しているが、地図上では線路に対して斜めに陸橋が架かっている。
以上の3点で、要は私道と南側道路との接続関係が異なっている、ということである。ここで、地図資料をもう一つ示そう。雪ヶ谷駅の歴史的変遷でも大いに参考になった、3千分の1都市計画図である。残念ながら今回は当該地図を見つけることができなかったので、これをベースにした新区内町界町名整理案図で確認しよう。
原図が小さいので、桐ヶ谷駅部分を拡大したが、かなりぼけてしまった。しかし、おおよその駅の構造は掴めるだろう。念のため、拡大前の地図も以下に示す。
こちらの方が見やすいか(苦笑)。赤く太い線は、桐ヶ谷駅南側の道路であるが、ここは当時の東京市品川区と東京市荏原区の境となっていた(現在は両区が合併して東京都品川区となっている)。桐ヶ谷駅開設時においては、東京府荏原郡大崎町と東京府荏原郡荏原町の境であり、地域の主要道の一つであった。では、拡大図も含めて上地図を見よう。注目は、島式ホームの南側(図では左側)から南方私道側の四角形に通路のようなものが描かれていること、そして四角形からは北東側(図では右上側)に私道が伸びて一般道に接道していること、である。これは前回示した「番地界入 東京府荏原郡大崎町全図」や、いわゆる火災保険地図の桐ヶ谷駅周辺のものと同じ基本構造である、と言えるだろう。
ちなみにこの新区内町界町名整理案図の原図は、どんなに遅くとも1928年(昭和3年)6月17日よりも前に作成されていることがわかっている。理由は、この地図では池上電気鉄道の路線が大崎広小路駅までで止まっているからである。
ちょっと小さくて見にくいかもしれないが、地図右上にある大崎広小路駅の先の線路は、現在の山手通りにあたる部分で切れていることがわかる。本来なら、一気に五反田駅まで接続したかったのはもちろんだが、大崎広小路駅~五反田駅間の工事は難工事だったことが当時の大崎町民の目撃談からも指摘されているように、わずか300メートルほどの区間に半年以上の工事期間を必要とした。大崎広小路駅の開業は1927年(昭和2年)10月9日なので、この日以降、先に述べた1928年(昭和3年)6月17日よりも以前のものだとなるわけである。
わざわざこのようなことをふれたのには理由がある。それは、当初からの疑義である「二方向の改札口が本当にあったのか?」というものである。雪ヶ谷駅から桐ヶ谷駅までの部分開業は1927年(昭和2年)8月28日であり、その約1か月後の10月9日に桐ヶ谷駅~大崎広小路駅間の開業となった。そしてその翌年、五反田駅まで全通する以前の段階では、桐ヶ谷駅ホーム北側へのアプローチは各種地図において痕跡すら見られない。仮に、これらの地図が作成される前でかつ、桐ヶ谷駅が開業して以降のわずかな間に開業前の図面にあるような駅ホーム北側へのアプローチがあったとすれば、非常に短期間の間になくなってしまったとなるだろう。だが、本当にそんなことをしてまでなくす必要性があったのだろうか。あったとすれば、これも既に述べたように改札口が二方向であったなら、駅員配置等のコストの問題や運行における保安上の問題も指摘されるが、そんなことはやる前からわかっているような問題である。
私がこれまでの材料から考えるに、ある時点での計画においては駅ホーム北側道路への直接的なアプローチが存在したが、桐ヶ谷駅が開業するまでの間に当該アプローチはなくなり、開業時においては駅ホーム南側から階段及び通路を経て駅本屋に達し、そこから狭いながらも駅前広場を通って駅南側道路に直結させた。一方、駅北側道路へは駅本屋から私道を経由してアプローチした、と考える。つまり、計画図である「桐ヶ谷停留場之図」は計画でしかなく、実際にはこのとおりではなかったと結論づける。
長くなったので、次回に続けます。たぶん次回で完結編…に、したい(苦笑)。
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