池上電気鉄道の歴史において調査していて辛いのは、基本資料(史料)が少ないことにある。もちろん、正史のない西武鉄道などにも同じことが言えるわけだが、始末の悪いのは池上電気鉄道が目黒蒲田電鉄に敵対的株式買収で統制・支配され合併に至ったことから、勝者による敗者の歴史というだけでなく、史料(資料)自体も摘まみ食いされる傾向が高いことに因る。
今回取り上げる光明寺駅はその中の一つで、基本資料である「東京急行電鉄50年史」(以下、東急50年史)での扱いは「なかったことにされている」(歴史を記述する態度としては、資料が存在しないものは伝承等があっても否定するという見解に立つのはわかるが、鉄道忌避伝説論者のように現在的視点から「発見された資料」のみで否定する見解に持って行く態度はいかがなものかということ)のであるが、現実は単に資料の調査不足(あるいは意図的無視)に過ぎず、現実に存在していたことは戦前の基本資料の一つである「東京横浜電鉄沿革史」(以下、東横沿革史)や池上電気鉄道自身による路線図や運賃表、官報、鉄道省申請文書等の公的文書からも明らかである(下は官報大正12年(1923年)5月8日付記事より)。
とはいえ、このような経緯から自明のように、無視されるだけの理由がないわけではない。なぜなら、光明寺駅は成立時こそ何時かははっきりしているが、いつ廃止になったのかがはっきりしないからである。成立は、1923年(大正12年)5月4日の池上~雪ヶ谷間延伸開業(いわゆる第二期線開業)の際、池上~雪ヶ谷間に新規開業した駅(停車場、停留場)の一つで、
池上 ~ 光明寺 ~ 末広 ~ 御嶽山前 ~ 雪ヶ谷
ということで、新たに開業した4駅の一つであることが確認できる。だが、1926年(大正15年)になって光明寺駅の存在意義が問われるような動きが現れ始める。それが慶大グラウンド前の開業である。
慶大グラウンド前駅は、開業時は当時の荏原郡池上村と同郡調布村の境界付近にあったが、1927年(昭和2年)の都市計画道路計画によって移転を余儀なくされた。一方、目的地である慶應義塾大学の運動場(野球場や陸上運動場等)までの道路が耕地整理によって新たに作られたことも相俟って、慶大グラウンド前駅は光明寺駅寄りに異動することになる。この結果、既存の光明寺駅と慶大グラウンド前駅の間隔は約200メートルまで接近し(これは今日の大崎広小路~五反田よりも短い)、光明寺駅の存在意義、必要性が問われるという流れとなったのだ。(参考記事「慶應義塾大学新田球場における旅客争奪戦 後編(シリーズ「池上電気鉄道 VS 目黒蒲田電鉄」)」ほか。下図はこの記事より引用。)
また、池上電気鉄道は鉄道自体にも大きな変更が生じようとしていた。それは複線化工事である。池上~蒲田間開業以来、池上電気鉄道は複線で建設予定だったにもかかわらず、単線で開業、旅客運輸を行っていた。このため、鉄道省からは仮設備扱いを受け、大正年間中は本設備(複線化)になるまでの猶予期間をたびたび延期申請を行うほどだったが、高柳体制から川崎財閥系に経営体制が変わったことで、ついにこれが実現しようとしていた。これは1927年(昭和2年)中に実施され、同年7月27日に蒲田~雪ヶ谷間で複線化工事が完了、営業運転を開始した。
この複線化工事と慶大グラウンド前駅移転工事は密接に関係しており、複線化工事と同時に施工されている。そうなると、移転後にわずか200メートルの距離となる光明寺駅はどうなるのか。複線化対応した光明寺駅が存在したのか否かが気になるところだが、この時期、興味深い資料(史料)がある。国立公文書館にある鉄道関係資料のうち、池上電気鉄道に関する次の記事である。
何と、複線化完了後、二週間足らずで廃止申請が成されているのである。内容自体は閲覧した際に確認したが、単に廃止するという短い内容であり、鉄道省への提出文書であるのでその経緯であるとかはまったく記載されていない。だが、本当にここで廃止されたかどうかは疑問符が付く。理由は、この後になっても池上電気鉄道が鉄道省に提出する各種文書(例えば雪ヶ谷~桐ヶ谷間延長工事に関する申請図面とか、昭和3年以降の文書など)にも光明寺駅が存在するかのような記載があるからである。
もちろん、延長工事などの図面類は、実際に申請するかなり以前から作成されているのが常なので、それを最近の動向を踏まえて訂正するのが本来としつつも、なかなか励行されないこともある。推測でしかないが、慶大グラウンド前駅の移転は池上電気鉄道にとっては唐突に行われた(都市計画道路によって)ため、複線化工事と同時期に施工させたものの、その結果、光明寺駅と著しく近接することとなったので、廃止せざるを得ないという判断が働いた。だが、他の申請図面上等はそれを修正するまでには至らず、そのまま存置されたのではないか、と見る。
光明寺駅が1927年(昭和2年)中に廃止された証拠は、池上電気鉄道自身が作成した営業路線図にも示されている。作成時期について確実な月日までは特定できないが、本図は延伸工事が続く中に作成されたものであって、駅名を追記し易いようになっている。これを見れば、光明寺駅の入る余地はなく、どんなに遅くとも1927年(昭和2年)までには廃止されたことが確実となる(下図を見れば、慶大グラウンド前と末広 間に駅の入り込む余地はない)。
そして、この図の裏面には、
このように「来春迄には五反田駅に於て省線と連絡」云々あるように、来春とは1928年(昭和3年)を指すことから、この文章が作成された時期はその前年である1927年(昭和2年)と判断できるわけだ。
以上のように、どの史料(資料)のどの部分に着目するかによって、光明寺駅の存在そのものや廃止時期については揺らぎが起こる。現時点の私の見解は、以上を踏まえて次のような流れを示して、光明寺駅の変転については結論づけたい。
- 1923年(大正12年)5月4日 第二期線(池上~雪ヶ谷間)単線開業。途中駅に光明寺駅が開設。
- 1926年(大正15年)8月6日 池上~光明寺間に慶大グラウンド前駅開設。
- 1927年(昭和2年)6月24日 慶大グラウンド前駅、光明寺駅寄りに異動。
- 1927年(昭和2年)7月27日 蒲田~雪ヶ谷間、複線化工事完了。営業運転開始。光明寺駅、営業休止(状態)。
- 1927年(昭和2年)8月11日 光明寺駅、廃止申請。
慶大グラウンド前駅の異動については複線化工事と密接に関連しているが、時期については国立公文書館の史料から6月24日と判断した(昭和2年6月24日 慶大グラウンド前停留場を停車場に変更の件)。また、光明寺駅の営業については、複線営業開始によって事実上休止されたと判断した。理由は、廃止前提でわざわざ下り線(蒲田方面)専用ホームを作らない(単線時のホームは複線営業後、上り線(雪ヶ谷方面)に転用)だろうからとの推測による。
また、巷間には光明寺駅が駅名改称の結果、慶大グラウンド前駅になったとする説も聞こえるが、これについては併存期間が確実に史料(資料)から確認できること。加えて、慶大グラウンド前駅が開設後、わずか1年程で移設したという事実がほとんど知られていない(私もこのことを確認したきっかけは「池上町史」にさらっと記載された短い文章から)ことがあるだろう。といったところで、今回はここまで。
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