「池上電気鉄道、開業前の年表作成の試みに関する一考」と「池上電気鉄道、開業後から1927年までの年表作成の試みに関する一考」の続きです。
さて、今回も池上電気鉄道の年表を東横沿革史(東京横浜電鉄沿革史)と東急50年史(東京急行電鉄50年史)とを比較しながら、残る7年間を見ていこう。
残る7年の年表は、これまであったような両書間の年代的違い(錯誤)は見い出せない。ただし、記事の数はこれまで以上に東横沿革史のものは少なく、わずかに4記事しかない。
- 大崎広小路~五反田間開通。
- 取締役社長中島久万吉辞任。後藤国彦代表取締役に就任。
- 池上電鉄を統制。
- 池上電鉄を合併。
実にあっさりと言うべきか、何と言うか…。五反田~蒲田全通以外は会社の体制にかかわる記事のみで、それ以外はない。1927年以前の東横沿革史年表も記事の数は、東急50年史より少ないのだが、それにしても少なすぎる。特に、奥沢線(新奥沢線。雪ヶ谷~新奥沢間)は腫れ物を扱うがごとく、と言っていいのか、まったくふれられていない。ただし、全般的に1928年(昭和3年)より後の時代は、総じて池上電気鉄道に関する記事は少なく、私もこれまでに様々な文献等を見る限りにおいて、まったくといっていいほどないに等しい。統計資料からは、五反田まで全通したことで乗降客数が倍々ゲームで伸びていることはわかるのだが、これといったトピックがないのか(大きな事件などがなければ年表に記しにくいのはわかる)、別の理由があるのか何とも言えないが、記事が極端に少なくなるのが目黒蒲田電鉄に統制されるまでの4~5年間なのである(1930年=昭和5年は何一つない)。
以上のことから、池上電気鉄道の通史をあらわす場合、困難な問題の一つが五反田まで全通して以降の歴史がそれ以前と比べてスカスカであることにある。無論、奥沢線問題や白金延長線問題など、個別の事象はあるにせよ、社全体としての取り組みと言おうか流れと言おうか、そういったものが見えにくいという点にある。だからこそ、事業展開として見るべきものがないから合併されるという憂き目に遭ったとの判断もあるだろう。そんなことをあれこれ考えながら、今回はここまで。
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