「池上線開通式典の写真を分析する─「目で見る品川区の100年」より─」
「続・池上線開通式典の写真を分析する─「目で見る品川区の100年」より─」
「続々・池上線開通式典の写真を分析する─「目で見る品川区の100年」より─」
「続×3・池上線開通式典の写真を分析する─「目で見る品川区の100年」より─」
「目で見る品川区の100年」の73ページにある3枚の写真について、として既に今回で5回目に入ってしまっているが、ようやく2枚目の写真について見ていこう。
絵解き(写真解説)には、
目黒蒲田電鉄(目蒲線)開通(大正12年)
渋沢栄一の「田園都市構想」で始まった目蒲線は、関東大震災後に工事を急ぎ、11月には全線開通した。この事業で活躍したのが、鉄道院の課長で渋沢に見出され、のちの大東急を築いた五島慶太である。写真にはその五島が写っているらしいが、どの人物かはっきりしない。
とあるが、まずはこの絵解きの誤り等から指摘しよう。前提として、目黒蒲田電鉄株式会社設立と「目蒲線」誕生の背景を理解することが肝要である。
田園都市株式会社の当初計画線である大井町駅から洗足・調布(多摩川台)方面への路線に、池上電鉄対抗上からの第二期計画線(目黒駅~大岡山駅(現在の大岡山駅より北へ約100メートル離れた位置))と、武蔵電気鉄道から無償譲渡された蒲田支線の三線部分統合による「目蒲線」建設を目的として、田園都市株式会社の子会社 目黒蒲田電鉄株式会社が設立された。設立時に武蔵電気鉄道から移籍した五島慶太氏によって、目黒蒲田電鉄が牽引されていくのは確かだが、この三線部分統合を目論んだのは五島ではない。というのも、目黒蒲田電鉄設立前に五島はまだ田園都市株式会社にかかわっておらず、当時は阪神急行電鉄の小林一三氏が顧問として鉄道事業を覧ており、五島を推挙したのも小林だった。小林と五島の関係は、阪神急行電鉄と鉄道院、つまり鉄道事業許認可の相対時代からのものであったが、五島は渋沢とは直接関係なくおそらく自らの野心から武蔵電気鉄道に天下りし、第一次世界大戦後の不況からまったく鉄道建設どころでなくなった会社で自死を待つほかなかったところに、小林からの救いの手(推挙というのはあくまで正史表現であって、自分(五島)を田園都市株式会社に引き抜いてくれるのであれば、蒲田支線の免許を手土産にしようという裏交渉があったと見込む)を差し伸べられたことで、生涯の師として崇める存在となった。目黒蒲田電鉄とは、本来まったく異なる3つの鉄道敷設免許をあたかも一つの路線として「見せかけるための方便」であり、だからこそ目黒から蒲田まで(目黒~大岡山=第二期線、大岡山~多摩川=第一期線の部分、多摩川~蒲田=武蔵電鉄蒲田支線)ということを強調した社名となったのである。
以上を踏まえていくと、
渋沢栄一の「田園都市構想」で始まった目蒲線は、関東大震災後に工事を急ぎ、11月には全線開通した。←表現不適当及び事実錯誤
確かに田園都市構想が嚆矢であるが、それでは明治に起こったことすべてが明治維新に由来するというほどに大雑把すぎ、かつ不正確だとなるのは先にふれた経緯から自明である。また、関東大震災後に工事を急いだのは事実であるが、それは敷設工事ではなく既に完成していた箇所の補修(補強)工事である。つまり、関東大震災がなかったならば、開業(正確には丸子~蒲田間の延伸)は11月ではなく9月ないし10月にはできていたのだ。
この事業で活躍したのが、鉄道院の課長で渋沢に見出され、のちの大東急を築いた五島慶太である。←誤りと言いたいが抑えて事実誤認
これも先にふれたように、五島慶太は鉄道院→武蔵電気鉄道→田園都市(目黒蒲田電鉄)という職歴であり、渋沢に見出されてなどいない。見出されたというなら渋沢でなく小林一三となるが、私はこれについても疑義を呈する。端的に言えば、推挙とか見出されたという「神話」ではなく、武蔵電気鉄道から蒲田支線の免許を掠め取るという条件で引き抜かれた(引き抜いてもらった)と見るが、そこまで絵解きでふれる必要はないが、見出されとするなら小林となるだろう。
では、問題の写真について。以前の記事でも書いたが、これは本当に現在の品川区域の写真なのかということが、最大の疑問である。
目黒蒲田電鉄(目蒲線)の駅のうち、現在の品川区域にある駅は、目黒、不動前(開業時は目黒不動前)、武蔵小山(開業時は小山)、西小山だが、西小山は昭和に入ってから新設されたので、開通時に存在したのは3駅である。この写真を見ると、後方に寺社等に見られる柵状の構造物と高さ数メートルには達する山状地形が確認できるが、この3駅周辺にはこのようなものはまったくない。
さらに、目黒蒲田電鉄(目蒲線、というよりは目黒線というべきか)開通式は大正12年(1923年)3月11日に開通日と同日に開催されているが、会場は3か所で、目黒駅、洗足駅、多摩川駅で行われた。この3会場のうち、ここに示す写真に最も近いもの、というかそのものとなるのは多摩川駅付近(浅間神社あたり)となるが、言うまでもなくこの場所は現在では東京都大田区にあたる。よって、品川区域ではない写真なのである。
では目蒲線開業日ではなく、別の視点、目黒蒲田電鉄の駅のうち、品川区域にあるものとして捉え直すといわゆる目蒲線の他には大井線(大井町線)の駅の可能性を指摘できる。列挙すると、大井町、下神明(開業時は戸越)、戸越公園(開業時は蛇窪)、中延、荏原町、東洗足(旗の台に改名・移設)があげられるが、いずれも最寄りにこのような地形などは存在しない。もしかしたら…として荏原町をあげられるかもしれないが、法蓮寺・旗ヶ岡八幡神社の山としてはやや高すぎるので、やはり該当しないとなろう。
そして開通式は、当時は駅の近くで行われるのが通例なので(一枚目の写真が池上線開通式でないと否定できたことも大きい)、写真の地形的要因からこの写真は品川区域のものではないと結論づける。ただ、この写真が「目で見る品川区の100年」ではなく「目で見る大田区の100年」に掲載されていれば、絵解き以外に問題はなくなる。
と、いつもならここで次回回しとするところだが、この話が長くなりすぎるのは私的にどうかと考えているので、続いて3枚目の写真に話を進めよう。
この写真の絵解き(写真解説)は、
池上線開通の記念写真(昭和2年)
池上線の蒲田─五反田間の開通は、大田区の住民はもちろん、品川区の大崎や荏原の住民にとっても大きな喜びだった。写真は旗の台の通称「どんどん橋」辺りで、地元の名士たちが跨線橋の上で記念撮影を行ったときのもの。
とあるが、これは1枚目の写真との高い関連性を示すものだろう(逆に2枚目の写真が浮きまくっているとも言えるが)。だが、1枚目の池上線開通とされた写真は、これまでふれてきた様々な検証から昭和2年(1927年)のものではないことが確実視されるので、果たしてこの写真もそれと同様なのかと考えなければならない。とはいえ、まずは写真そのものに注目しよう。この注目ポイントは、
黄色く楕円で囲った所だ。通称どんどん橋の奥側に見える橋脚、無論、どんどん橋のものでないことは構図から自明で、きわめて近距離にもう一つの跨線橋の存在を予見させる。そう、これこそが、
散々、これまで取り上げてきたコの字状の場所にあった跨線橋ではないかとなるのである(左下が通称どんどん橋)。手前の通称どんどん橋は橋脚がしっかりとコンクリート(のようなもの)で固められているのに比べ、その奥に見える橋脚の脚下の何と貧弱なことか。やはり、歩行者専用という位置づけということからだろうか(コの字状かつ上り下りがあるので自動車等には向かない)。
ただし、肝心なことは検証困難と言わざるを得ない。それは、本当に開通時(昭和2年8月28日)の写真なのか、それとも1枚目の写真(踏切開通時)と同時期のものなのか、ということである。この73ページ掲載の3枚の写真に関連性があれば、1枚目の写真から推定できもするが、2枚目が時期も場所もまったく別物の写真が差し込まれたことからすると、3枚目のこの写真が1枚目との関連性があるとは言えず、結論を得ることができない。まぁ、わずかな検証だけでこれだけの誤り等が見つかる書籍なので、絵解きは一切信用できないくらいの姿勢がいいのだろうが、本書「目で見る品川区100年」あとがきに、
「しながわWEB写真館」には写真の内容説明がありません。たった一枚の写真に思いがけないほど多くのメッセージが埋め込まれていることがよくあるものです。ただし、そのメッセージにたどり着くには、写されている内容に対する知識と想像力が必要になるでしょう。そこで本書は、写真解説を入れることで、写真に秘められた豊かな世界にたどり着けるように工夫しました。
とあるように、わざわざこれをウリにしようとしたにもかかわらず、結果がこの惨憺たる無様な説明にもならないウソが塗り込まれているのだから始末におえない。もちろん、絵解きを作る作業は膨大な知識を要するのだが、ジャンルは異なるが、せめて「イタリア・ルネサンスの建築」(クリストフ・ルイトポルト・フロンメル著、稲川直樹訳、鹿島出版会)の絵解きくらいのレベルはほしい。
と、最後は批判っぽくなってしまったが、今回はここまで。次回は別の話題とする予定。
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