かれこれ20日ほど前に「誤り目立つ「目で見る品川区の100年」と「目で見る大田区の100年」」という記事を書いたのはいいが、よくよく読んでみると「目で見る大田区の100年」についてはほとんど、いや全くふれていないことに気づいた。正確に言えば、コメント欄にご意見を頂戴したことで気づいたのだが(苦笑。コメントは非公開希望ということなので見えません)、あれを書き始めた当初はよもや「目で見る品川区の100年」にあれほど多くの間違い・勘違いがあるとは思ってもいなかったからで、実際その後も池上電気鉄道線開通式の写真関係だけで7回も費やしてしまったことから、すっかり忘れてしまっていたのだ。
てなわけで、「目で見る大田区の100年」についても語っていこう。なお、「目で見る品川区の100年」と「目で見る大田区の100年」には決定的な差があることを最初に示しておく。それは監修者の有無で、「目で見る品川区の100年」はないが、「目で見る大田区の100年」には本表紙からもわかるように「監修=江波戸昭」とある。ご存じの方はご存じのように、江波戸昭氏(以下、江波戸先生と呼称させていただく)は、大田区田園調布に古くからお住まいになっており、地元の歴史に詳しいというよりは実体験としてお持ちであるだけでなく、数々の著書からもわかるように地理や民俗関連等に明るい。つまり、単なる自称郷土史家とか、大学を出て学術論文さえ書いていれば学者だと思い込んでいるだけの輩とはまったくレベル(次元)の異なる江波戸先生が監修されているのである(ただし名義貸しを除く)。
それが影響を及ぼしているからか、「目で見る大田区の100年」には致命傷レベルの誤りはないに等しい(無論、私のレベルから見てであって、もっとお詳しい方がご覧になればそうでない可能性もある)。とはいえ、まったくないわけではなく、「目で見る品川区の100年」と比べればはるかに重箱の隅レベルの指摘となるが、以下に示していこう。
まずは、「目で見る大田区の100年」23ページより。3枚の写真は洗足池関連のもので、このうち1枚目と2枚目の絵解き(写真説明)についてである。
洗足池の風景(大正初期)
洗足のもともとの地名は「千束」であり、貞観2年(860)、洗足池の西に鎮座する千束八幡神社が、千束郷の総鎮守として宇佐八幡宮から勧請された。治承4年(1180)には、源頼朝がこの地に宿営し、名馬「池月」を得たという逸話もある。日蓮聖人が池で足を洗ったという伝承をもとに、大正時代から「洗足池」と表記するようになった。
ずばり指摘するところは「大正時代から「洗足池」と表記するようになった」とあるところで、表記自体は江戸後期から紀行文や近郊案内的な書物に「洗足池」という表記が見られ始める(千束と併記)。また、明治初期の2万分1地形図(フランス式)などにも「洗足池」との表記があり、官製地図に書かれるようになったのは明治初期となることから大正時代ではない、となる。
勝海舟の寓居(大正初期)
江戸幕府で軍艦奉行などを歴任した勝海舟は、洗足池の風景を好み、明治維新後は池の東側に「千束軒」という別邸を建て、旧薩摩藩の西郷隆盛と、ここで交友したという。写真に写る勝海舟の住まいは、戦災によって消失し、現在は跡地に大森第六中学校が建っている。勝海舟夫妻の墓は、現在の池の東側にある。
3枚目の絵解きは「明治維新後は池の東側に「千束軒」という別邸を建て」とあるところで、正しくは「洗足軒」となる。地元の人たちにとっては「洗足」でなく「千束」なのだが、どうも勝海舟にとっては「洗足池」という理解だったようで(江戸市中では近郊遊覧・紀行文等で「洗足池」とされていたので、いくら地元の民が「千束池」だと言っても厳しいだろう)、明治初期の官製地図でも「洗足池」とあることから、明治維新前後の関係者(官係者)にとっては「洗足池」畔の「洗足軒」という流れと解する(参考記事:「洗足か千束なのか 前編」)。
続いて、「目で見る大田区の100年」51ページより。3枚ある写真のうち、真ん中(2枚目)の絵解きについて。
駅前の風景(大正12年)
目黒蒲田電鉄調布駅(昭和2年に田園調布駅に改称)前の風景。田園調布の分譲は大正12年11月に始まる。図らずも、同年9月に関東大震災が発生したため、都心の人々が郊外に土地を求める動機を与えた。鉄道交通の発達など、近代化の促進と相まって田園調布の分譲は好調だった。
江波戸先生、どうしたんですか? と心配してしまうようなミス。「目黒蒲田電鉄調布駅(昭和2年に田園調布駅に改称)前の風景」とあるが、調布駅から田園調布駅への改称は「定説では」大正15年(1926年)であったはずだが、なぜか翌年(昭和2年=1927年)になっている。単なるミスなのか、あるいは新資料発見に基づく「定説覆し」によるものかは現時点では決めつけられないが、一応、ミスではないかとしておく。また、「田園調布の分譲は大正12年11月に始まる」とあるが、これも一説に拠れば「大正12年8月」というものもあることを指摘しておく。
続いて、「目で見る大田区の100年」84ページより。3枚ある写真のうち、最も右上にある写真の絵解きについて。
鵜ノ木駅(昭和9年)
目黒蒲田電鉄の目黒─蒲田間は、大正12年11月に全線開通し、目蒲線とよばれた。鵜ノ木駅は、翌13年2月に開業。翌14年、目黒蒲田電鉄は東京横浜電鉄と合併し、会社名を「東京横浜電鉄株式会社(現在の東京急行電鉄)」とした。
指摘する点は、大正と昭和を混同してしまっている点。
- 1923年(大正12年)11月1日、目黒─蒲田間全線開通。
- 1924年(大正13年)2月29日、鵜ノ木駅開業。
- 1939年(昭和14年)10月1日、目黒蒲田電鉄が東京横浜電鉄を合併。
- 1939年(昭和14年)10月16日、目黒蒲田電鉄が東京横浜電鉄と名称変更。
という流れであり、和暦上は12→13→14と続くが、13から14は大正から昭和であるので、翌14年という表記はおかしい(誤り)。
続いて、「目で見る大田区の100年」180ページより。2枚ある写真のうち、上にある写真の絵解きについて。
矢口渡駅(昭和30年頃)
東京急行電鉄目蒲線の矢口渡駅。現在は多摩川線。駅名の由来となった矢口の渡しは、中原街道が多摩川を渡る際の渡し場だった。矢口の渡しは、丸子橋ができたことにより、昭和10年に廃止された。
何となく…ではあるが、これは江波戸先生の監修の目を逃れた(あるいは担当外)としか思えないほどの凡ミス。「中原街道が多摩川を渡る際の渡し場だった」及び「丸子橋ができたことにより、昭和10年に廃止された」とある一連の説明は矢口の渡しの説明ではなく、丸子の渡しの説明である。矢口の渡しは別名、古市場の渡しと呼ばれ、東京府荏原郡矢口村大字古市場(明治22年より以前は古市場村)内に属し、現在は一部が川崎市側となっているが、明治45年(1912年)の多摩川における府県境界変更前までは東京府荏原郡に属していた。これに代わる橋は第二京浜国道に架かる多摩川大橋であり、しかも多摩川大橋の完成は戦後になってからである(昭和24年=1949年。正確に言えば、橋そのものは暫定的な木製の橋が昭和20年3月に完成したが、翌月の米軍機による空襲で焼け落ちている)。昭和22年(1947年)時点の航空写真を見れば、
ご覧のとおり橋脚くらいしかできていないことが確認できよう。また、矢口の渡し自体も昭和10年(1935年)で終わる理由などなく、多摩川大橋の完成した昭和24年(1949年)まで存続した。つまり、この絵解きは丸子の渡しの説明であり、矢口の渡しの説明ではない。そして、関連する駅の説明とも乖離してしまったとなるのである。それから細かいが「現在は多摩川線」ではなく、現在は東急多摩川線が正しい(多摩川線は西武鉄道にもあり、表記をわけるため線名として「東急多摩川線」としている)。
続いて、「目で見る大田区の100年」192ページより。上の写真の絵解きについて。
大田区産業会館での工業展(昭和38年)
大田区産業会館は昭和35年に落成し、同年に第1回大田区工業製品展が開催された。現在、建物は改装され、大田区大田南地域行政センターとして使用されている。
細かいが「現在、建物は改装され」とあるが、正しくは改装(改築)などではなくまったく新たに建設(新築)されたのであり、改装(や改築)ではない。大田区産業会館は私にとって思い出の地で、若気の至りの頃、ここでコミケ(コミックマーケット)が開催されており、毎回参加していたのだ(大雑把にいうと大田区産業会館→晴海→幕張→有明 という流れ)。なので、ここが取り壊されると聞いたときは想い出に枕を濡らし(苦笑)、取り壊される現場まで見に行ったほどである。なので、改装や改築ではないことを知っているわけだ。また、これも細かいが「大田区大田南地域行政センターとして使用」ではなく、もう名前は変わっており「蒲田地域庁舎」と呼称するようである。コロコロ名前を変えるのは勘弁してほしいが、きっと利便性などよりも名前を変えることで「俺様色に染まった」というトップの思い込みだと考える。
さて、こんなところがざっと見て気づいた点である。色々指摘したが、最初にもふれたように「目で見る品川区の100年」と比べればはるかに誤りは少ない。あちらの方はもう絵解きを見る気はしない、という気分にさせるが、こちらはそれほどではない。では、本書に掲載されている写真の中で、私が注目した写真をご紹介しながら、あれこれ語っていきたいと思う。まずはこちらの写真から。
「目で見る大田区の100年」81ページに掲載されている写真。絵解きでは昭和16年(1941年)とあり、注目は電車(池上線)の行き先表示板である。右側が五反田方面、左側が蒲田方面の電車だが、左側の行き先表示板には「五反田 雪ヶ谷」とある。もし、これが昭和16年(1941年)のものだとすれば、当blogで雪ヶ谷駅改称時期問題として昭和8年(1933年)改名説(雪ヶ谷→雪ヶ谷大塚)を否定しているように、この写真でも裏付けることができるとなる。単に、書く欄が狭いから省略表記だとする説もあろうが、
この写真を見ても、省略表記はないのではないかな…と見る。この写真は、様々な媒体に掲載されており、「目で見る大田区の100年」123ページにも載っている。これは戦後(昭和20年代)のもので、ここには雪ヶ谷ではなく雪ヶ谷大塚となっていることが確認できる。
ほかに興味深い写真としては、「目で見る大田区の100年」79ページのこの写真。昭和3年の大岡山駅と絵解きにあるが、だとすれば、大井線と二子玉川線がつながる前(大井町~大岡山のみ)となる。おそらく、駅西側(踏切)から東側(洗足駅方向)を写したと見るが、興味深いのは今まさに電車が載っている線路が行き止まりとなっていることである。方位が正しければ、これは大井町線ではなく目蒲線と見るが、この行き止まりとなっている理由はいかなるものなのか。単純に考えれば、大岡山駅始発の目蒲線があったということ?とは思うが、実際はどうだったのだろう。
ということで長々と書いてきたが、今回はここまで。
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